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zoom RSS 箕輪初心★『日新館&保科正之&新島八重のパネル展』

<<   作成日時 : 2013/04/25 05:16   >>

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「什の掟」
一、年長者(年上の人)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ
  「ならぬことはならぬ」ものです。
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◆◆ 箕輪初心◆会津:新島八重を巡る旅 ◆◆
  山本覚馬・新島八重の実家跡&山本家の墓を掲載
http://53922401.at.webry.info/201304/article_21.html

◆◆ 箕輪初心★会津若松城1回目&会津の名所 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_22.html

◆◆ 箕輪初心◆会津若松城2回目 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_23.html



■訪問日・・・平成25年(2013)4月21日
※本当の日新館は鶴ヶ城の西にあった。
・寛政10年(1798) 会津藩家老田中玄宰の藩校の進言・・・。 
・享和3年(1803) 会津藩の御用商人:須田新九郎が経費を寄付。
 会津若松城の西隣に日新館の校舎が完成。
 東西約120間×南北約60間。
 水練場や天文台もあった。
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・戊辰戦争で焼失・・・天文台のみ残っている。

・ICの北に復元された。 




@山川健次郎の銅像・・・東京帝国大学総長
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A山門風・・・中国・韓国系の雰囲気
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B映像・・・7分
6〜9歳までの藩士の男子は10人前後のグループ「什」を
結成した。集団の決まりを定めたものが「什の掟」である。
※会津藩の藩士の子弟は10歳になると日新館に入学した。
10歳〜15歳までは素読所で、礼法、書学、武術などを学んだ。
15歳〜成績優秀者&上級武士は講釈所への入学した。
その後、優秀な者には江戸や他藩への遊学が許された。
※山本覚馬もその一人で、遊学後、日新館の教授になった。

群馬のパンフレットがあってビックリした。
 新島襄旧宅・秋間梅林のパンフレットがあったのだ。
 
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C白虎隊2番隊の人形で生活を紹介
・素読所では・・
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・講釈所では
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・礼儀作法・・・切腹の方法まであった。
作法は小笠原流であろう。
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D山崎闇斎の像
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E保科正之の画像
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★★ 保科正之 ★★
・慶長16年(1611) 第2代将軍徳川秀忠の4男(庶子)として
 生まれた。母は秀忠の乳母大姥局の侍女で北条氏旧臣・神尾栄嘉
(かんおさかよし)の娘:静と言われている。
 武田信玄の次女:見性院(穴山信君正室)に預けられ、育てら
 れた。
・元和3年(1617) 旧武田氏家臣の信濃高遠藩主:保科正光
(★祖父:保科正直は徳川家康の異父兄弟でもある。
  保科正直は北条氏政の家臣で、天正18年(1590)の小田原攻撃時、
  真田昌幸に箕輪城を渡した。
)が預かり、
 正光の子として養育した。
 保科正光は後継者として正之を指名した。 
・寛永8年(1631) 高遠藩3万石の藩主となった。
  正四位下肥後守兼左近衛中将に叙任された。
※長男:徳川家光が「保科正之」を知ったのは成就院の僧侶から
 「肥後守殿は弟君である。」と聞かされて知ったとされる。
第3代将軍:家光は異母弟を可愛がった。
※次男:徳川忠長から徳川家康の遺品を頂戴した。

・寛永13年(1636) 保科正之は出羽山形藩20万石を拝領した。
・寛永20年(1643) 会津藩23万石を拝領した。
  以後、正之の子孫の会津松平家が幕末まで会津藩主を務めた。

・慶安4年(1651) 徳川家光は保科正之を呼び寄せ、
 「肥後よ、宗家を頼みおく。」と遺言した。

・寛文8年(1668) 保科正之は『会津家訓十五箇条』を定めた。
 第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、
 藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」
 と記し、以降、藩主・藩士は共にこれを忠実に守った。
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※幕末の藩主:松平容保(水戸藩系統)はこの遺訓を守り、佐幕派
 の中心的存在として最後まで西軍=新政府軍=薩長軍と戦った。
(★新島八重から見た幕末と明治・ウキペディア等より編集)
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D孔子廟・・・・★学問の神様か?
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E刀や薙刀




F企画展・・・没後80年記念 新島八重の生涯「パネル展」
★京都:同志社大学からの借り物で写真撮影禁止
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、「幕末のジャンヌ・ダルク時代」コーナー
・弘化2年(1845) 新島八重は会津藩の砲術師範であった山本権八
 &佐久夫妻の子として、現在の会津若松市に生まれた。

※嘉永6年(1853) 黒船の来航により開国に追い込まれた。
※幕末期・・・幕府の権力が徐々に失われつつあった。
 
・山本八重は幼少期から男まさりな性格だった。
  裁縫よりも砲術に興味を示した。 
  力持ちでもあったらしい。
  実兄の山本覚馬から洋式砲術の操作法を学んだ。
・山本八重は20歳の時、川崎尚之助と結婚した。
・慶応4年(1868) 鳥羽・伏見の戦い
  新撰組:土方歳三も伏見奉行所から後退し始めた。
  大坂城にいた松平容保&一橋慶喜は西軍の最新兵器の
  前に敗北続き・・船に乗って撤退した。
 「錦の御旗」の前に桑名藩は西軍について、幕府軍に発砲した。
  会津藩は西軍=新政府軍から『逆賊』として扱われた。
  西軍=新政府軍の攻撃は東征になった。
  近藤勇&土方歳三&斉藤一なども会津に来た。
  西軍=新政府軍の攻撃は次第に会津各地・鶴ヶ城に広がった。
  会津若松城は籠城戦になった際には、山本八重は髪を断ち、戦死
  した弟:山本三郎の服で男装し、兄:山本覚馬から送ってもらっ
  た七連発スペンサー銃を持って銃撃戦に参加した。
  後に『幕末のジャンヌ・ダルク』とも呼ばれるようになった。
  また、白虎隊に操銃を指南したのは、川崎尚之助であった。
  また、山本八重も指導したとも言われている。
★いずれ、土方歳三も書いてみよう。

、「ハンサム・ウーマン時代」「新島夫婦時代」コーナー
★徳富蘇峰は「鵺のような女性」と称していた。
 新島八重の格好=外見は、時に和服&西洋服・・・
  時には和服に革靴とアンバランスの西洋かぶれだったらしい。
 だが、中身の精神は会津人気質の上にクリスチャンレディ=
 博愛精神に満ちた人間だったらしい。
◆◆ 箕輪初心★新島襄 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄の生涯』詳細編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_1.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄の京都の家&新島八重の墓』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201304/article_13.html


、「女学校時代」コーナー」


山本八重の兄:山本覚馬
山本覚馬は日新館に入学。山本覚馬は剣、槍、馬術など成績優秀者
 として江戸に行った。江戸では、佐久間象山から西洋式の砲術や
 蘭学を学んだ。吉田松陰や勝海舟とも知り合った。
 山本覚馬は、会津で日新館の教授に任命され、日新館内に蘭学所を
 開設した。山本覚馬の影響は大きかった。
 会津・京都で活躍した。
 横井小楠の思想を受け継いだとも言われる山本覚馬&
 坂本龍馬・・・
 薩摩藩の獄中で書いた「宦官」は薩摩藩に高く評価された。
 坂本龍馬の「船中八策」と似ているので、山本覚馬の考えを
 ベースにしたという説も本で読んだ。
 眼が不自由になった。・・・頑張った。
山本覚馬の二女:久栄は横井時雄(横井小楠の嫡男)と結婚した。
横井時雄は新島襄から洗礼を受けた。金森通倫・徳富蘇峰・徳冨
 蘆花は母方の親戚にあたる。横井時雄の妹は海老名弾正の妻であ
 る。新島八重の親戚ということになる。また、安中の湯浅治郎の妻
 にも嫁いでいる。



◆◆ 箕輪初心★『伊香保を愛した徳冨蘆花』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_6.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄&徳富蘇峰』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_7.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄1』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄2』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_1.htm

◆◆ 箕輪初心★八重周辺『湯浅治郎』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_8.html


◆◆ 有田屋7代目:湯浅康毅氏のブログ ◆◆
http://www.aritaya.com/frame/frame_whatsnew.html


、「日本のナイチンゲール時代」「晩年の八重」コーナー
  同志社出身の救世軍仕官「山室軍平」とも親しかった。
  佐賀藩出身の赤十字「佐野常民」とも関わりがあった。 


日新館&山本八重
会津人気質は「真面目で実直。我慢強い性格」と表現される。
「幕末のジャンヌ・ダルク」「ハンサムウーマン」「日本のナイチン
ゲール」と呼ばれる新島八重には、会津魂が宿っていて行動力の
源になっていた。」というようなことが日新館では解説してあった。



G井深梶之助の像・・・明治学院大学の創設者
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★新島八重の群馬安中と会津の旅かな?

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箕輪初心★小笠原長時の波乱の人生&会津
会津若松と言えば、鶴ヶ城=会津若松城。白虎隊に代表にされる戊 辰戦争の地である。蘆名盛氏・伊達政宗・蒲生氏郷・上杉景勝&直 江景続・保科正之・松平容保・野口英世など聞の有名人がいる。で も、大龍寺で、ボランティアガイドの方から「小笠原長時の墓です。」 といた時はビックリした。「小笠原長時と室・息女の墓」と立札?の 奧に立派な2つの墓があったのだ。 何で墓があるのか?と思った。 後で調べてみると、意外に小笠原氏と会津は関係が深いことがわかっ た。@ 武田信玄に信濃を追われ、転々... ...続きを見る
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2013/04/27 07:01

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