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zoom RSS 箕輪初心★小幡一族&熊井土一族&三方原の戦

<<   作成日時 : 2013/04/10 05:38   >>

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群馬甘楽小幡に小幡重貞の本拠地があった。しかし、小幡重貞は
本拠を国峰城に移し、家老の熊井土に小幡館に住まわせた。小幡
重貞の妻は長野業政の長女であった。しかし、長野業政の計略で
従兄弟:小幡図書之介(宮崎城&神成城)は富岡の国峰城を占領
した。小幡重貞は永禄年間の武田信玄の誘いで、長野業政の同心
から武田信玄の家臣になった。武田信玄は小幡赤武者隊を家臣に
したのだ。小幡重貞は武田信玄の「信」の字を賜り、小幡信貞(信実)
に名前を変えた。武田信玄は、山景昌景・真田昌幸にも赤武者隊を
編成させた。小幡昌高の赤武者隊は「三方原の戦」で徳川家康にと
って、屈辱を与えた。徳川家康の生涯でただ一度の大敗であっ
た。長篠の戦いに敗れた小幡昌高の子孫は徳川家康の家臣になっ
た。山県昌景の家臣の多くは井伊直政の家臣として「赤備え隊」とし
て受け継いだ。天正18年(1590)に熊井土の子は井伊直政家臣となっ
た岡本半助宣就である。江戸時代には、織田信長の子:信雄の入封
してきた。

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 (★熊井土→織田時代の楽山園)
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 (★宮崎城:・・・時代)
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 (★小幡重貞=信貞の国峰城)

★参考文献&参考資料
@「小幡赤武者隊&三方ヶ原の戦い」岩井良平著
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ANHKのビデオ「その時歴史が動いた:徳川家康三方原の大ばくち」
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B「赤備え」井伊達夫著
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 (★井伊達夫氏の著書)




◆◆ 箕輪初心★小幡信貞  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_16.html

◆◆ 箕輪初心★小幡一族の歴史2「武田二十四将へ」  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201107/article_18.html

◆◆ 箕輪初心★清洲城&織田信雄  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_7.html

【0】岩井良平氏
@「小幡赤武者隊&三方ヶ原の戦い」は現地取材を重ね、膨大な史資料
から、武田信玄最後の一戦の全貌と小幡赤武者隊の活躍を明らかにし
た歴史研究大作である。
A岩井良平著者略歴
・大正12年7月群馬県富岡市に誕生。
・昭和19年3月海軍兵学校卒業第73期。
   海軍少尉候補生・伊勢乗組を命ぜらる。
   レイテ沖海戦、北号作戦(昭南よりの物資輸送)。
・昭和20年2月軍艦伊勢退艦、即日潜水学校に入校
   3月任海軍中尉
   5月海軍潜水学校第13期普通科学生教程卒業
   6月補伊号第百五十七潜乗組砲術長兼通信長職務執行
      最期の回天特別攻撃隊多聞隊の訓練支援
   11月予備役。
・昭和21年3月入夫婚姻、岩井姓に改姓。
8月沖電気工業(株)富岡工場に勤務、試作課設計係技手。
・昭和28年3月沖電気工業(株)を退社。
       保安隊(職種通信)に入隊。
・昭和48年7月定年退官二等陸佐。
・昭和51年4月旭光商運
      電子計算機通信学院勤務
   高千穂学園に勤務・・・・
   高千穂商科大学図書課長。図書館事務部長。
・昭和59年3月定年退職
・2008年 「三方原の戦と小幡赤武者隊」初版


【1】 三方原の戦と小幡赤武者隊
第一章 三方原の戦ーーー諸説
・元亀3年(1572) 三方原の戦
武田信玄25000 VS 徳川・織田12000

第二章 西上州国峰城主小幡氏と小幡四天王
・天文11年(1552) 宮崎城&神成城の城主:小幡図書之介は
 国峰城:小幡重貞が草津温泉に湯治に行った際、城を乗っ取
 った。(伝)

大将:小幡重貞=→信貞(=信定)→=信実→=新龍斎
 岩井氏説・・小幡憲重=重貞→子:信実→孫:昌高?
 小幡四天王
 @森平・・・・★甲陽軍艦

 A熊井土重満・・・・★起請文&甲陽軍艦
永禄9年(1566)・永禄10年(1567)の生島足島神社の起請
  文に小幡氏の一族とその家臣、熊井土重満(小幡館)
  ・松本吉久(吉井長根城)・市川景吉(南牧)・黒澤重家(上野)
  ・山口高清などが連署した。
熊井土重満は重要な位置を占めていたのだ。
『甲陽軍鑑』の小幡上総守先衆「覚之衆」として
  熊井土が出てくる。
★現小幡藩の屋敷跡・楽山園に住んでいた。  
  ★武田氏滅亡後、北条家家臣→井伊直政家臣:岡本半助
  群馬サファリの地が知行地になった。岡本姓に改姓した
  らしい。・・・
  山崎一氏の「群馬県古城塁祉の研究」にも出てこない。
  個人的には、富岡市岡本に屋敷があったのではないかと
  考えている。   

◆◆ 箕輪初心★井伊家家臣:『岡本半助宣就』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_9.html?pc=on
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 (★岡本半助の赤備え・・・井伊達夫氏)
 
 
 B白石・・・・岩井氏説「安中の野殿白石主水」
   ★岩井良平氏の先祖

 C鈴木・・・・岩井氏説「甘楽の庭屋氏家老:鈴木」


第三章 国峰小幡氏の跡目問題と信玄の思惑
 岩井氏説
 @「国峰小幡氏と甲州小幡氏とは関係がない。
  甲州小幡氏は小畑に改姓させられた。武田二十四将の小畑
  上総介は甲州小幡氏である。
 A国峰小幡氏は秘密兵器であるから、隠したのである。」と説明している。
 ★A説は納得がいかない。国峰小幡氏実質的な録は、四万
  石であるからである。 




第四章 国峰小幡氏の跡目争いと信玄の影
◆◆ 箕輪初心★箕輪城11「武田信玄の西上州侵攻」◆◆
http://53922401.at.webry.info/201010/article_16.html
◆◆ 箕輪初心★小幡信貞  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201104/article_16.html
近藤義雄先生や多くの小説では、
 ★小幡信貞の妻は箕輪城主:長野業政の長女である。
 武田信玄は小幡信貞に妻との離縁を命じた。
 小幡信貞は「妻が自害する。」として、断った。

 岩井氏説「小幡憲重の妻は箕輪城主:長野業政の娘
  」としている。
 ★近藤義雄先生の説とは違う。
 「長野業政の娘・・次男:信重、三男:昌高、四男:昌定で、
他の妻から生まれた長男:信実、五男:信秀である。
  長男:信実が嫡系で、三方原の戦位から登場してくる。
  「信」は「昌」より諱が上である。」

 ★近藤義雄先生説と岩井氏説で異なっている。


第五章 信玄と国峰小幡氏の赤備化
岩井説「・永禄9年(1566)箕輪城落城後、武田信玄の命令で
 赤備え化した。」と考えている。根拠は、翌年、武田信玄は
 小幡信実に丹生村(現富岡市丹生)を与えた。新田信純を
 後閑(現安中市後閑)に移封した。丹生は辰砂(硫黄と水銀
 の化合物)の産地で、武具の「朱漆」の原料になる。
国峰小幡氏は手勢500騎=2500人の精鋭部隊である。
甲陽軍艦に「手勢ばかりで、組なし・・」にあるように、
 「手勢」で、「相備」ではない。武田信玄は25人一組の
 小集団部隊が普通であった。富岡市藤木や甘楽に「馬場」
 という地名が残っている。
 岩井良平氏の説は、「武田信玄の命で赤備えにした。」とあるのだ。

 ★岩井氏のこの説にも納得がいかない。
  武田信玄の家臣以前に、赤備えをしていたと思っている。
  逆に、武田信玄が利用したと考える方がいい。
  箕輪城攻撃で活躍した小幡重貞隊の赤備えを利用し、
  遊撃隊とし、その後、山県昌景隊や真田幸隆隊を赤備え
  にしたと考える方が妥当だと思われる。丹生の新田は
  以前に従兄弟の小幡図書之助の領土であったからであ
  る。
  永禄6年(1563)頃、真田幸隆は吾妻の草津方面を支配
  したが、草津の白根・万座には硫黄・鉄が産出する。
  従って、真田幸隆の赤備えはこのころであると考える。

赤武者隊・赤備えは兜や甲冑が赤であったので、
 「赤武者隊」と呼ばれている。
 初めの赤武者隊は「長野業政の同心:小幡重貞軍団」であった。

 

◆◆ 箕輪初心●群馬『後閑城&長源寺』 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_19.html
箕輪初心の調べ
・天文7年(1538)依田光慶が板鼻鷹巣城に移った(伝)。
・・・・ 北条政時の時代は不明
・弘治元年(1555)新田信純が長源寺に寄進。
  (★長源寺文書)
・弘治2年(1556)北条政時を滅ぼした新田景純の子
    :伊勢守信純がに在城。
 ※新田・・・新田義貞子孫説と新田岩松子孫説がある
  新田姓→後閑姓に改称説)   
 ※「後閑城の依田氏に新田が侵攻」
    (★「丹生城の歴史」)
   →そして、依田新八郎(光慶)は、鷹ノ巣城
     (安中市板鼻)に在城
  (★安中市教委)
・永禄3年(1560)長尾景虎の第一回関東出陣は、近隣の
     高田氏・安中氏が従軍。   
    新田信純(真純と改名)と小幡信実らは武田に従属。
・永禄6年(1563)おそらく、新田は箕輪城攻めに参加?
・永禄9年(1566)  箕輪城落城。
・永禄10年(1567) 新田真純を後閑城に入城。
    後閑城に入城して「後閑」を称したと伝える説
     (★『上州故城塁記』)
・天正10年(1582) 武田氏が滅亡。
  @新田真純の長男:信重は厩橋(前橋城)
    の上杉謙信配下の北条(きたじょう)高広に従属。
  A新田真純の次男:重政・・北条氏に所属
  B新田真純の3男:信久・・北条氏に所属。
   ※共に後閑と呼ばれた。



第六章 小幡昌高の赤武者隊に対する徳川家康の恐怖と憎悪
★国峰小幡昌高の赤武者隊が遊撃隊のような活動をしていた
 のであろう。後、徳川家康は井伊直政(★赤備え)に同じ役
 目を負わせたのであろうと思った。
 @諏訪原城の戦いでも、撤退した。
 
 A高天神城の前哨戦で、横須加に撤退した。


第七章 小幡又七郎昌定の戦没とオロンコ様信仰

第八章 武田軍の組編成と小幡氏の動員兵力
1)甲陽軍艦
 組編成基準・・・50組661人(武者411人+小荷駄250人)
 弓・鉄砲60
  槍60
騎馬侍160
本部131・・・馬6+使い番20+侍大将附属80+旗10
惣拠旗16
一組小荷駄要員250人と馬31疋
※661人×50組=33050人

2) 小幡部隊・・・約7000人
大将・・・小幡上総介信実
副大将・・小幡又八郎
侍大将10人・・・森平・熊井土・白石・鈴木など
戦闘要員   4411人×10組=4410人
小荷駄要員 250人×10組=2500人


第九章 三方原への布石・・・陣玄の軍事行動
※合戦の経緯
武田信玄は駿河侵攻により、西の徳川・織田と東の北条氏康に挟
み撃ちにされる形となる。やがて武田氏は北条氏を退けて今川領国
を確保した。徳川家康領国である三河・遠江方面への侵攻を開始す
る。武田信玄の侵攻に対して徳川家康・織田信長勢の対決が始まっ
た。

・元亀元年(1571) 室町幕府15代将軍:足利義昭の織田信長討伐令
  (=第二次信長包囲網)
・元亀2年(1572) 武田信玄は遠江国・三河国に侵攻
 (ただし、武田氏と織田氏は同盟関係は維持していた。)
  当初織田氏は徳川氏に援軍を送らなかった。
  北条氏康の死→北条氏は武田氏と和睦=甲相同盟が復活。
3月 久能城の巡検
小幡上総介は鵯(ひよどり)山で殿を勤めた。
(★甲陽軍艦)
・元亀3年(1573) 武田信玄が西上作戦を開始する。
  武田氏の最大動員兵力・・・総計3万人の軍勢。
  武田信玄は兵を3つに分けて遠江国・三河国・美濃国に同時
  侵攻を行った。
@山県昌景軍5,000人。
  9月29日、信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の
   支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城
   である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。
A秋山信友軍5,000人。
   居城:高遠城より東美濃に侵攻。
   織田氏の主要拠点・岩村城を包囲。
   11月初旬に岩村城を攻略。
◆◆ 箕輪初心●岐阜『岩村城』 ◆◆
◆◆ 箕輪初心●【岩村城1回目紅葉写真集】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_21.html

◆◆ 箕輪初心●【岩村城2回目御殿〜二の丸】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_23.html

◆◆ 箕輪初心●岩村城3: ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_24.html
  ※事実上の織田氏との同盟破棄となった。
   
B武田信玄本隊2万2,000人(北条氏の援軍2,000人)。
10月3日、甲府より出陣。諏訪へ迂回→青崩峠から遠江国に侵攻。
   南進して要所・二俣城へ向かう。
途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の
   只来城に向かわせて別れた。


一方の徳川家康の最大動員兵力は1万5,000人

@山県昌景隊の対策に7,000人 
A武田信玄本隊の対策に8,000人余しか動員できなかった。
B織田信長は信長包囲網による近畿各地の反乱鎮圧に追われていた。
  岩村城への支援も2000人。
  徳川家康に援軍を送れるようになったのは12月になってから
  だった。
  武田軍の機動力や三路からの同時侵攻(本隊・山県隊・馬場隊)
  の前には成す術も無かった。

10月13日 B馬場信春隊は只来城を落とした後、徳川氏の本城:浜
 松城と掛川城・高天神城を結ぶ要所:二俣城を包囲した。
 信玄率いる武田軍本隊も二俣城に向かっていた。
10月14日 徳川家康は武田軍の動向を探るために威力偵察に出た。
    武田軍本隊と遭遇してしまった。
   一言坂の戦い・・・敗走する。

10月16日 武田信玄は二俣城に降伏勧告を行った。
     1,200人の兵力なのに、二俣城は拒否。
10月18日 二俣城の戦い
     武田軍の攻撃が開始。
11月初旬 山県昌景隊も包囲に参加。
      城の水の手を絶った。
12月19日 開城・降伏。
     →遠江国の北部が武田領となる。

※徳川家康軍は二俣城落城前に、佐久間信盛・滝川一益・平手汎秀
 ・林秀貞・水野信元ら織田軍3,000人の支援を得て、1万1,000人
  に兵力になった。

1)古記録
 『当代記』『四戦紀聞』などの史料
  徳川家康は戦うつもりがなかったが、物見に出ていた部下が小競り
  合いを始めてしまい、城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込ま
  れてしまった。
  
2)地理的考察

3)信玄の巡視経路


第10章 再考ーー三方原の戦
 徳川家康は武田信玄の狙いは本城:浜松城であると考えて篭城戦に備
 えた。
12月22日 武田軍が二俣城を出発。遠州平野内を西進する。
 武田軍は、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとして
  いた。浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城
 (現浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であった。
 ★家康が出陣した理由
@通説・・・武田信玄の挑発に乗った説。
A「その時歴史が動いた説」あえて出撃することによって家臣や
  国人衆たちの信頼を得るという説。
  武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出
  る可能性があったという考え。
B戦役終了後に徳川氏に有利になるよう戦略的アピールを狙った説
C祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説
D浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた説
※武田信玄が徳川家康を出陣せざるを得ない状況に追い込んだことは
 確かである。

→徳川家康は、一部の家臣の反対を押し切って、三方ヶ原から祝田の
 坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更した。
 浜松城から追撃に出た。夕刻には、三方ヶ原台地に到着した。
 ※武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えていた。
  徳川軍は鶴翼の陣をとっった。
  戦闘が始まった。
(★「その時歴史が動いた」ビデオ)
画像


第11章 小幡赤武者隊の奇襲と酒井・佐久間の敗走
岩井氏説「酒井・佐久間が戦わず敗走した原因が書いてない。
  実は国峰小幡隊の右斜め後方からの奇襲があった。・・・
  しかし、武田信玄は小幡氏は秘密兵器なので、秘密にして
  いた。」・・・高柳氏や小和田哲夫氏(★静岡大学名誉教授)
  は小幡氏を評価していないと、著書の中で嘆いていた。

 

第12章 信玄の戦術=自弱の法&佯退(偽りの退却)の法
徳川軍16000は鶴翼の陣・・・通常は自軍の数が多いので、
    相手を包囲するのに用いられる陣形である。
理由
  説@・・武田本隊は去っており、少数だと予想していたため。
 説A・・・勝ち目が無いので兵力を大きく見せて相手の動揺を
      誘おうとした説。
 説B徳川家康は合戦をすることが目的であったため、体当たり
  し、逃げることが目的だった説。
   ※鶴翼は両翼の中心後方に大将を置くので逃げやすい。
武田軍32000は魚鱗の陣・・・通常は自軍の数が少ないので、
    敵中突破を狙うのに用いられる陣形である。
理由
  説@鶴翼の陣を見て、徳川家康を討ち取ることに狙いを絞った。
   ※中央は必然的に薄くなる。
 説A織田軍の佐久間信盛が援軍にいる情報を得ていたことなど
  から、徳川家康軍を多く見積もっていた。
画像

 (★岩井氏作成の地図)
※岩井氏説・・・自弱の法&佯退(偽りの退却)の法
 「馬場・勝頼・山県にあしらわせ、・・山際まで、ひきとら
 せる。・・・」(★甲陽軍艦)とあるが、予想より徳川家康軍
 は強かった。
※両軍の規模を見れば、通常と異なる布陣を敷いていた。


第13章 小幡氏に関わる文献解釈と再検討
※岩井氏説・・山県ではなく、小幡ではないだろうか?
山県昌景も赤備えであるから、岩井氏の説もあり得る。


第14章 佯退(偽りの退却)する山県隊の意外な敗走・・・
※岩井氏説・・・自弱の法&佯退(偽りの退却)の法
 「馬場・勝頼・山県にあしらわせ、・・山際まで、ひきとら
 せる。・・・」(★甲陽軍艦)とあるが、予想より徳川家康軍
 は強かった。山県隊の孕石源右衛門泰時(★18年後後、井伊
 直政の家老)は、徳川家康の家臣:成瀬に殺されそうになった。
 佯退(偽りの退却)は負けた振りをしながら、逃げるので難し
 いので、あろう。
「馬場・勝頼・山県にあしらわせ、・・山際まで、ひきとら
 せる。・・・」(★甲陽軍艦)とあるが、馬場ではなく、内藤
 ではないだろうか。



第15章 家康の退路解明
徳川家康は東に逃げた説が通説である。(★信長公記など)
 ※岩井氏説・・・西に逃げた。
※岩井氏説・・・「徳川家康の旗本軍は武田信玄の本隊に
  突撃したが、左から小幡隊・右から馬場隊が入り、敗れた。
  徳川家康はその直前に1騎で大谷の窪南端の崖に沿い、和地
  の方角=西に逃げたのである。」
画像

 (★岩井良平氏作成の地図)


第16章 勝頼が内藤昌豊に与えた起請文
岩井氏説・・穴山信君は「徳川家康を逃した責任は内藤昌豊に
ある。」として、責めた。しかし、山県昌景のとしなしで、
その場は、納まった。しかし、内藤昌豊武田信玄の死で殉死
しようとしたが、武田信勝は「中傷である。」などの起請文を
出した。

第17章 三方原の戦ーーーその結末
 武田軍 VS 徳川軍
2時間の戦闘で甚大な被害を受けて、徳川軍は敗走した。

 徳川家康は討ち死に寸前まで追い詰められ、夏目吉信や鈴木久三郎
 を身代わりにして敗走した。供は成瀬吉右衛門・日下部兵右衛門
 小栗忠蔵、島田治兵衛などのみで浜松城へ逃げ帰った。
徳川家康は脱糞=うんこちびり伝説

※徳川家康は浜松城の全ての城門を開めさせた。篝火を焚き、空城の
 計を行った。そして、「しかみ像」を描かせた。後後の教訓にした。
画像

 (★ビデオ「その時歴史が動いた」) 

浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって、城内に突入
することなく、そのまま引き上げた。


※犀ヶ崖の戦い(★現浜松北高校隣)
 徳川家康は、夜、一矢報いようと考え、大久保忠世:天野康景ら
 浜松城の北方約1kmにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲
させた。多数の死傷者を出したという。
 徳川軍が崖に誘き寄せるために崖に布を張って橋に見せかけ、
 誤認した武田勢を崖下に転落させたと伝わっている。
 (★東海戦国武将ウォーキング)
 荒唐無稽な逸話である。(★ウキペディア)

武田軍の死傷者・・・200人
徳川軍は死傷者・・・2,000人
   鳥居四郎左衛門・成瀬藤蔵・中根正照・青木貞治や
   徳川家康の身代わりとなった夏目吉信・鈴木久三郎など
   織田軍の平手汎秀などが戦死。
 全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かっ
 たこともあり、家康を討ち取ることは、できなかった。
(★ウキペディア)
岩井氏説「武田信玄の誘き出し、負けた振りして、家康の首
  とり作戦は失敗に終わった。しかし、勝利には違いない。」



〜〜〜〜合戦後〜〜〜〜
武田軍は遠江国で越年した後、東三河へ侵攻。
野田城の戦いで、野田城を攻略した後、武田信玄の急病に伴って
西上作戦を切り上げた。武田軍は甲斐国への撤退した。
元亀4年4月12日に帰路の途中、武田信玄は病死する。
徳川家康・織田信長の大きな危機であったが、結果として、
武田信玄の病死という幸運に恵まれた。
その後、武田勝頼が家督を継ぐ。
8月には、徳川家康は長篠城を取り戻すことに成功し、奥平貞能・
貞昌親子を長篠城に入れた。

織田信長は反信長勢力を打破した。
徳川家康は三河・遠江で勢力を伸ばした。

天正年間 武田勝頼は小笠原長忠が篭る高天神城を後略。
     遠江の再掌握を開始することに成功。
画像

◆◆ 箕輪初心◆静岡『高天神城』 ◆◆



・天正3年 長篠の戦い
  武田勝頼は織田・徳川連合軍に大敗。・・・
◆◆ 箕輪初心◆長篠の戦い ◆◆
@前編 http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

A後編 http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html



・天正12年(1582)武田勝頼は自刃。武田氏滅亡。
★徳川家康は旧武田家臣を家臣にした。

6男:徳川武田信吉で、水戸藩主になった。
 跡部勝資の子孫には、武田耕雲斎がいる。
◆◆ 箕輪初心◆水戸天狗党と下仁田戦争 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201303/article_27.html


徳川家康命令で、井伊直政の家臣になった者。
小幡孫四郎・山県昌景の家臣など・・・

北条氏直の家臣になっていた小幡家家老:熊井土は
岡本姓をを名乗り、岡本半助宣就となり、井伊家家老に
なった。


◆◆ 箕輪初心◆奥平一族 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html


  
小幡昌高は、上杉家(越後→会津→米沢)→最上家改易→井
昌高子孫が姫路:奥平家に仕官→移封して忍藩:奥平家へ、

◆◆ 箕輪初心◆忍城:のぼうの城 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_6.html


・天正18年(1590) 徳川家康は関東入封。
  井伊直政は箕輪城主
小幡昌高は信州塩田の小島郷に去った。
・・・小幡信実の養子:孫市郎直之は
徳川家康の小姓に召し出された。
  ・・・・しかし、関ヶ原の戦いや大阪の陣には
行かせて貰えなかった。

二代:徳川秀忠の時、安中の野殿など1100石の
旗本となった。





★明日は、京都に戻ろうかな?

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