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zoom RSS 箕輪初心◆水戸天狗党3−1『水戸〜下仁田戦争直前』

<<   作成日時 : 2013/03/24 09:54   >>

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平成25年(2013)年3月初旬、里見哲夫先生の御孫様には、大変
嫌な思い、御迷惑をおかけしてしまいました。改めてお詫び申し上
げます。
知識不足の「下仁田戦争」を調べることにしました。
★平成25年(2013)年3月24日16:10、里見哲夫先生宅に謝罪に
お伺いしました。里見哲夫先生はいらっしゃらなかったのですが、
一族の方4名とお会いできました。「また、お出で下さい。」と奧様
が言葉をかけて下され、とても嬉しく思いました。
里見哲夫先生と御孫様、御先祖様は本当に大変だったのですね。
「元治元年(1864) 11月16日、高崎藩一番隊は里見治兵衛宅前
に陣を構え討つことにした。」(★「上州の明治維新」:中島明著)
そして、「水戸天狗党と下仁田戦争150話」大塚政義著、
「水戸天狗党と下仁田戦争」群馬県立歴史博物館第73回企画展
などで調べました。大塚政義氏の本が凄いので、今回のベースに
させていただきました。下仁田ふるさとセンター:歴史民俗資料館
の神戸先生も説明をいただきました。
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 (★里見哲夫先生宅=高崎藩の本陣)


◆◆ 箕輪初心★下仁田の特産品・名所・偉人・有名人 ◆◆
 ★里見哲夫先生=「シダ植物研究」の 第一人者
http://53922401.at.webry.info/201204/article_20.html
http://53922401.at.webry.info/201205/article_15.html


====水戸浪士の動向を下仁田戦争=====
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 (★ふるさとセンターの冊子)



【1】プロローグ 「ペリーの来航&開国」
・嘉永6年(1853) アメリカの海軍大佐:ペリーが軍艦4隻を率い
 て浦賀の沖に姿を見せた。当時の世論は圧倒的に攘夷論者が多
 く、幕府は容易に開国できない状態であった。
・安政5年(1858) 井伊直弼は条約締結を進め、開国した。
 ※世の中は騒然となった。

◆◆ 箕輪初心◆横浜開港 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_8.html

◆◆ 箕輪初心★岩瀬忠震(ただなり) ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_1.html



【2】 水戸藩の動向&天狗党挙兵と西上
ペリー来航より、水戸藩も佐幕派と尊皇攘夷論の二派に分裂して
激しく対立した。
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 (★水戸城の薬い門)
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 (★水戸黄門像)
・安政6年(1859) 井伊直弼の安政の大獄
  水戸斉昭永年    武田耕雲斎隠居

・万延元年(1860) 桜田門の変
   中居屋重兵衛が水戸藩士にピストルを渡した。
水戸藩士:関鉄之介らが井伊直弼を殺害。
◆◆ 箕輪初心★中居屋重兵衛 ◆◆  
http://53922401.at.webry.info/201106/article_14.html   

・文久3年(1863) 山国兵部と配下:藤田小四郎は、上洛。
  桂小五郎・久坂玄端らと会った。

・元治元年(1864)
3月20日 藤田小四郎(藤田東湖の四男)は水戸町奉行:田丸稲
 之衛門を総帥として府中(=土浦)に迎えた。
3月27日田丸稲之衛門・藤田小四郎ら63名が『尊王攘夷』を旗印
  に筑波山で挙兵した。水戸天狗党と呼ばれる一派であった。
 やがて、若い武士・諸国の浪人・農家の次男三男等が続々と筑波に
 やってきて、総勢400人程になった。 
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 佐幕派:市川らが対抗して来た。

4月2日 筑波山→宇都宮
※本当は徳川の神廟に立て籠もり、尊王攘夷論を展開するつもり
だった。江戸幕府も大砲は撃たないと考えた。

4月10日 藤田らは藩主:徳川斉昭の遺志を奉じ、館林藩が警護す
 る日光東照宮を参拝して、戦勝祈願をした。
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◆◆ 箕輪初心★日光東照宮 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_28.html

◆◆ 箕輪初心★松尾芭蕉:日光編 ◆◆ 
http://53922401.at.webry.info/201207/article_28.html



4月14日 太平山(栃木市)の蓮祥院を本陣とし、葵の紋をたて
 て、上州(群馬)や野州(栃木)で軍資金の調達を始めた。

4月15日〜17日 水戸町奉行:山国兵部が追捕史となった。
江戸幕府からも天狗党追討令が出された。
そして、水戸藩及び江戸幕府は本格的に筑波討伐を始めた。
やがて水戸天狗党が劣勢となった。

5月2日 先鋒軍は太田宿に入った。
 古久屋三郎次の旅籠に水戸天狗党3人泊まった。

5月6日 伊勢崎の柴宿の柏屋
栗田源左衛門らは森村園右衛門の2000両の軍事金を出させた。
 田中げん蔵らは桐生4765両の軍資金を調達した。
 その他の浪士は、藤岡・小幡・天引・国峰・富岡・下仁田・
 で軍資金を調達した。
(★上州の明治維新」:中島明著)


5月28日 鈴木三郎ら5人は、渋川などで、強引に金を出させた。
 そのため、「水戸の天狗」と呼ばれた。

◇5月28日 江戸幕府は水戸天狗党の鎮撫を要請した。

5月31日 本隊は太平山を下りた。

6月4日  筑波山の本坊を本陣にした。
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6月9日 ▲江戸幕府は高崎藩以下11藩に対し、厳しい命令を出した。
 
6月25日 ▲高崎藩2,000人が小山(茨城県)に出兵した。

7月9日 下妻:高道祖の戦い
天狗党と幕府軍の最初の交戦は下妻であった。
 高崎藩は幕府軍の本陣の寺が火事になったと思い、敗走した。
 幕府軍が勝利をおさめた。

7月9日 水戸天狗党の下妻(茨城県)の夜襲
  水戸天狗党は、勝利に気を良くし祝杯に酔った幕府軍の寝込に
 夜襲をかけ、総崩れさせた。

7月25日〜
  水戸・銚子・潮来と転戦した。 

8月12日 武田耕雲斎が立ち上がった。

8月13日 磯浜(大洗)の戦い
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 (★あんこう鍋)

8月17日 ▲幕府軍は大磯の沖より那珂湊を攻撃
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8月25日 ▲幕府軍:田沼意尊が水戸講道館本営に入った。
幕府軍は1万3,000人の討伐兵を送り込んだ。
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10月10日 幕府軍の総攻撃開始。

10月15日 武田耕雲斎が合流。

10月23日 武田耕雲斎・山国兵部・田丸稲之衛門・
藤田小四郎ら900余名は那珂湊を脱した。

・・・大宮へ

10月25日 藤田小四郎らは大子(だいご)村に集まった。
 (★袋田の滝の近く)
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水戸天狗党は、京都在住の一橋慶喜公に決起の心情を訴えようと
 考えた。

10月26日 総帥は田丸稲之衛門から武田耕雲斎となった。
 

【3】 水戸天狗党の西上開始
11月1日 西上開始である。
出発地は水戸藩の大子(だいご)村であった。
 水戸天狗党の幕府追討軍&追悼命を受けた通過地点11藩
 と戦いながらの過酷な長旅が始まった。
天狗党の残党920余名は尊王攘夷の素志を貫徹すべしと、在京の
 徳川慶喜へ進言するために西上の途を決めた。
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 (★大子町のしゃも丼・・・ほかに写真がなかった。)
 
 ★沿道の11諸藩は何事もなく領内を通り過ぎることを願った
  のであろう。


11月2日 黒羽藩の攻撃を受けた。
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 (★黒羽城の松尾芭蕉銅像)

11月4日 伊王野→芦野(泊)
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 (★芦野の松尾芭蕉)

11月5日 那須野原→矢板・・

11月6日 ・・鬼怒川・・
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11月7日 ・・・今市・・(日光街道)・・・鹿沼・・
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11月9日 ・・・・・・・葛生・・

11月11日 太田宿・・・宿割りをした。
※太田金竜寺説=大塚政義氏
※太田橋本家節=中島明氏
  雨天のため、休養日であった。
本陣となった橋本家は武田・藤田らを温かく迎えた。
新田官軍の「岩松萬次郎」を頭主にしようを考えた。
 新田義貞の生品神社での挙兵と同じで、幕府を倒しての
 正当性が生まれるからである。同時に、多くの賛同者が
 出てくると考えたのである。
(★上州の明治維新」:中島明著)
藤田は以前から意を通じていた新田在住の新田一一族も
 大舘謙三郎・黒田兆民らとともに、岩松萬次郎の決起を
 促した。しかし、失敗に終わった。

 金井三郎=おそらく金井之恭(境島村の金井烏州3男)
 は子育て吞龍様の大光院を訪ねた。地図を広げ、「前橋藩・
 高崎藩…伊勢崎藩がここにいる。従って、この間道を行け。」
 と教えた。
 ★世良田→境島村→本庄→藤岡コースであった。
 
 軍事金集めに再び入った。

 
▲水戸天狗党の背後に佐野藩兵、追討軍本隊、
前には川越大砲隊・伊勢崎藩兵・連取農民兵がいた。
※前橋藩は87名の部隊を新田に送った。
(下仁田には286人の部隊であったが、到着は内山峠越え後
  であった。)

11月12日 太田昼過ぎ出発・・・
 木崎宿→中江田村→世良田村→
 午後4時〜夜〜午前3時、境の「平塚河岸」→利根川→武州向島


 (深谷市)・・・

11月13日
 現伊勢崎の境島村・・・
 ★あれ、田島弥平さん宅前だ。金井烏州3男:之恭のアドバイス通り
 のコースにしたのだ。・・
 
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 本庄宿(泊)

▲岡部藩は利根川を渡る水戸天狗党の最後の方の一部を捕縛した。


11月14日
▲高崎藩は新町川原まで進軍してきた。
藤岡で、町役人に納涼台を持って来させた。休息中でも油断は
していなかった。
 藤岡の武井三岳が500両を田丸に渡した。
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 (★芦田城)

吉井藩領の町役人:堀越文左衞門は、城主:松平信発に
 聞いてから、対処したい。しかし、物々しい支度で、
 領内を通られたのでは、殿に申し訳ない。」
 といった。
 薄井蔵人は旗をしまわせた。
 →吉井(泊)
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 (★吉井陣屋の門)
▲高崎藩は夜襲を考えていたが、吉井藩領なので、躊躇した。

11月15日
吉井→七日市→宮崎・一ノ宮を経て・・支障なく下仁田に
入った。
▲小幡藩兵は家老:小倉など300人?・馬山に行ったが
 水戸天狗党の大砲によって、神農原まで撤退した。

▲七日市藩用人:横尾鬼角は死に装束で、武田耕雲斎に
 面会して、「間道を行くように・・・」と依頼した。
 七日市藩兵は南蛇井(なんじゃい)から中沢に進んだ。
 しかし、大砲の音で中村から動かなかった。
 水戸天狗党が、横尾鬼角の案内で鏑川を渡った。
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 一ノ宮(現富岡市一ノ宮)に入った。貫前神社で戦勝祈願をした。
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▲高崎藩城代家老:宮部兵右衞門(★たぶん宮部譲の父)は、
高崎藩兵を4班に分けた。
1班・・高崎城の備え
2班・・1番隊:会田孫之進周幸(かねゆき)109人
3班・・2番隊:浅井隼馬92名
4班・・3番隊:深井忠之丞景忠(★深井英伍先祖)132名


▲幕命を受けた高崎藩・小幡藩・七日市藩は宮崎で会議を持った。
会田孫之進は小幡藩・七日市藩に先峰を頼んだが、
「武器がないため、・・。」とことわられた。
高崎藩は藩兵3隊320人余りの追撃隊を下仁田に向かわせた。

◎その頃、桜井弥右衞門宅では、有賀・杉原・富永・長野・小林
らが集まって会議を持った。
「女子どもは山に避難させ、若い者は村の警護をする。」
「下仁田には泊まらないで欲しい。」と懇願することになり、
長野見意(★箕輪城主:長野業政の子孫)と小林多治見が水戸
水戸天狗党に会いに宮崎に向かった。宇芸神社で水戸天狗党と
であった。
二人は懇願したが、滝平主殿は
「我等は、高崎藩・小幡藩・七日市藩と戦うためにここに来たの
ではない。京へ行くためだ。是非、下仁田で泊めて欲しい。」
と、言われてしまった。
二人はしかたなく、下仁田に急いで帰った。


▲高崎藩の1番隊:会田隊はは梅沢峠を越えて、下小坂の関口
先回りし下仁田の先の下小坂に本陣を構えた。
高崎藩士207名の本陣は名主:里見治兵衛宅であった。
里見治兵衛は里見哲夫先生の先祖である。
寺子屋もやっていて20人程の子どもに教えていた。
(★大恊ュ義氏) 
前の桑畑の木を切って、高崎藩士が陣取った。大砲4挺も据えた。
甲州流の陣立て
第一線・・・足軽小銃隊
第二線・・・徒士組刀槍小銃隊
第三線・・・一番隊隊長:会田&上級武士抜刀隊&
      大砲隊隊長:堤金之丞

15日の夕方、小坂峠を越え、水戸天狗党925名・・・
葵の旗を先頭に、馬は207匹・大砲15台・旗10・馬印89
・小荷駄50・大釜・・が下仁田に入って来た。
武田耕雲斎は、出迎えた村の名士達に先に声をかけた。
「わしは武田伊賀じゃ。今夜は世話になる。宜しく頼むぞ。」
と・・
礼儀正しいので、村人は少し安心した。
     (★大恊ュ義氏)
水戸天狗党925名の本陣は、櫻井家であった。
※里見家&櫻井家は徒歩15分程度の距離である。
櫻井宅・・・武田・田丸・山国など数十人
杉原宅・・・藤田・竹内など
富永宅・・・春日など
杉原宅・・・荘司など
有賀宅・・・難波など
倉田宅・・・高橋など
脇坂宅・・・島田など
富永宅・・・薄井など
石井宅・・・熊谷など
櫻井宅・・・滝平など
民家・・・・それぞれ・・・

老人・女・子どもが戻って来て、食事のしたくをした。

櫻井はまは武田に
「どうか村で戦を起こさないで下さい。」
と頼んだ。武田は
「高崎藩が近くにいる。避けたのは山々だが・・
村での戦は避けよう。」
と答えた。


【4】 「下仁田戦争」水戸天狗党 VS 高崎藩  
・元治元年(1864年)11月16日未明、
  天狗党925名 VS 高崎藩207名

水戸天狗党の攻撃は軍師:山国兵部の立てた「三方包囲作戦」
であった。
本隊・・・・本街道から
別働隊1・・西牧川の対岸から
別働隊2・・伊勢山→尾根→熊野山(ふるさとセンター)から


『下仁田戦争』が開始された。
 高崎藩は先制攻撃をかけた。
 高崎藩が優位に立った。
 一進一退の攻防戦であった。
 別働隊2は伊勢山から天狗党の一部が進軍してきた。
 小幡藩の旗をかかげ、「加勢にきた。」と油断させた。
 そして、熊野山=現ふるさとセンターから高崎藩兵に
 一斉射撃を浴びせた。
 ★きっと、里見家=高崎藩本陣は集中砲火を浴びたの
  だろう。

 高崎藩の堤金之丞の兜に銃丸が当たった。
  足軽大将:深井藤弥が介錯し、戦死した。  
 ★堤金之丞の父は高崎藩の江戸家老である。
勝海舟に砲術を学んだ。
  御子孫が「ちょんまげ時代の高崎」を執筆された。

 西牧川からも天狗党が攻めてきた。
 天狗党の三面奇襲が勝敗を分けた。
 ★深井藤弥の子孫には日銀総裁になった深井英伍の先祖
  であるらしい。


 
▲高崎藩は次第に後退していった。
 
※安導寺の戦い
  
→総崩れになって敗れた。
 高崎藩本陣付近での激戦は午前4時から6時頃まで続いた。
 残兵は中山道を高崎に敗走した。

結果・・
@高崎藩は36名の戦死者
高崎藩士の捕縛者8名はは青岩河原で処刑された。
  翌日、戦死者と共に遺族に引き取られた。
 高崎観音山の清水寺田村堂に
A天狗党4人の戦死者
 天狗党の戦死者は村内の寺に厚く葬られた。
重傷者の中には信州への峠を越えて絶命した者もあった。
 (★下仁田歴史資料館Hp)
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◆◆ 下仁田町の『下仁田戦争関連史跡』一覧 ◆◆
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@高崎藩士戦死の碑
  :明治26年11月16日、下仁田戦争30周年を記念して
   最大の激戦地となったこの地「岩下」に建立されている。
  ※「高崎藩士戦死之碑」は勝海舟の書による。
堤金之丞の砲術の師は勝海舟だった。
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A高崎藩本陣里見家 
  蔵の弾痕:高崎藩は小坂村名主里見治兵衛宅前に陣を構えた
  が、水戸天狗党の三面奇襲を受ける。蔵には当時の弾痕が残る。
★刀の切り跡もあったと記憶しているが・・・

B水戸天狗党本陣桜井家:
  本陣には総大将武田耕雲斎、山国兵部、田丸稲之衛門ほか幹部
  数十名が宿営。

C高崎藩士切腹の場=青岩河原
  捕えられた高崎藩士七名が処刑された場所
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D野村丑之助の墓
  初陣の丑之助は13歳。田丸稲之衛門の小姓、右手を切り落と
  される重傷を負ったことから、願って自害、首を討たれた。

E義烈千秋の碑
  てん額「義烈千秋」は小松宮彰仁親王の書。
  碑文は依田百川による。
  明治33年旧水戸藩士が下仁田警察署長に赴任した際、
  資金を募集し建立。

F本誓寺の墓:久保田藤吉、斎藤仲次の墓
  水戸天狗党の久保田、斎藤の身分や年齢は不詳。
  安導寺の戦いで戦死し本誓寺に埋葬された。
  

G大曾根繁蔵の墓:安導寺の戦いで戦死。水戸天狗党


Hふるさとセンター下仁田歴史資料館
  下仁田戦争で水戸天狗党が高崎藩本陣を攻撃する際、
  この松周辺から発砲したことから、それ以降「狙いの松」
  と呼ばれた。第二次世界大戦末期に松根油を採取する
  目的で伐採されてしまった。
(★下仁田歴史資料館Hp)
http://www.town.shimonita.lg.jp/kyouiku/m02/m06/02.html
(★「水戸天狗党と下仁田戦争」群馬県立歴史博物館)

 
・「兵士行軍図」

・戦争の時飛来した弾丸、弓の矢
  高崎藩本陣=里見家から。
 
〜〜〜〜等

※高崎藩士「堤金之丞」の兜
 「黒塗り六十二間筋兜」高崎藩のクリ半月の前立てがついている。
 堤金之丞は高崎藩の江戸詰目付け。
 高崎藩第一番手の使番兼目付として出陣し、本陣で指揮を
  とっている際に、熊野山より天狗党に狙撃され即死(42歳)

水戸天狗党は、何故戦争を始めてしまったのか不思議な気持ち
になった。里見哲夫先生の家が大変だったことが分かった。





★20000字を越えてしまった。

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箕輪初心◆水戸天狗党2『下仁田戦争の詳細編』
★平成25年(2013)3月24日、里見哲夫先生宅に伺った。蔵の壁に は鉄砲の弾痕が残っている。近くには、勝海舟の書という「高崎藩士 戦死の碑」がある。島ア藤村も訪れたという。10mの崖上は、天狗 党が里見邸前にいた高崎藩を攻撃した場所であり。現在はふるさと センターである。下仁田戦争の激戦地だった場所である。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/03/25 07:19
箕輪初心◆水戸天狗党3の3「信濃→越前:処刑」
★水戸天狗党の西上の最大の激戦地:上野国下仁田の下小坂の 岩下の群馬bPの植物学者:里見哲夫先生宅前の畑である。 高崎藩109人 VS 水戸天狗党925人の戦いがあった。 高崎藩36名、水戸天狗党4名の戦死者を出した。高崎藩は 撤退しながら、安導寺で再び戦った。高崎藩は撤退し、水戸 天狗党は下仁田の本宿に泊まった。リーダーの武田耕雲斎は 神戸家に泊まった。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/03/26 05:47

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