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zoom RSS 箕輪初心★新田義貞の弟:脇屋義助&子孫の動向

<<   作成日時 : 2013/03/21 07:13   >>

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脇屋義助・・・嘉元3年(1305)〜興国3年・康永元年(1342)
5月11日(6月25日)。新田朝氏の長男が新田義貞、次男が脇屋
義助である。長女(妹)は大館宗氏の正妻である。脇屋義助は
新田荘脇屋に居住していたことから脇屋姓を名乗った。
・元弘元年(1331)脇屋義助は「どこに逃げたって同じ。鎌倉攻
撃をしよう。」と強行論を提案した。兄:新田義貞が鎌倉に向け
兵を挙げた。兄:新田義貞に従いって鎌倉を攻撃を敢行した。
北条氏を打ち倒した。建武の中興では、兄:新田義貞とともに
南朝:後醍醐天皇の下で活躍した。駿河守護(+越前守護)に
任命された。兄:新田義貞の「脇役」の脇屋義助であった。
兄:新田義貞が越前:福井の灯明寺畷で死亡すると、「主役」の
抜擢され、脇屋伊予守義助となった。でも、大変な役であった。
伊予の国分寺近くで亡くなった。・・・しかし、足利尊氏の時代
になってしまった。新田一族系で、足利幕府の要職についたのは
新田系山名一族、新田系岩松一族、新田系大舘一族などである。
新田宗家&脇屋子孫は苦しい道を歩んだ。

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 (脇屋義助の墓:愛媛県今治市国分寺北200m)



◆◆ 脇屋義助の生涯 ◆◆
【1】生誕〜兄:新田義貞の死
・嘉元3年(1305) 新田朝氏の次男として生まれた。
新田朝氏の長男が新田義貞、次男が脇屋義助である。
 長女(妹)は大館宗氏の正妻である。


 脇屋義助は新田荘脇屋に居住した。
脇屋館はどこかいな?・・・どなたか教えて下さい。
太田市脇屋の脇屋館跡は2回探したが、未だに行けないのである。
1回目は円福寺&台源氏館跡の中間の交差点を北上し、県道2号線
の「新田荘遺跡入口」交差点近くを北上した。台源氏館から見て、
県道2号線の反対にあるはずだが、・・・
2回目は伊勢崎の境島村(約埼玉県深谷市)の世界遺産候補:田島
弥平宅の帰り、旧尾島町→旧新田町に入った。いつのまにか、夕方
になり、探しているうちに真っ暗になってしまった。赤城神社と近
くの寺位しか見つからなかった。正法寺も分からなかった。

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・元弘元年(1331) 脇屋義助は「どこに逃げたって同じ。鎌倉攻
 撃をしよう。」と強行論を提案した。
 兄:新田義貞とともに新田荘生品神社にて挙兵した。


妹の夫:大館宗氏が戦死した。
 鎌倉を攻め、執権北条氏の滅亡した。

・元弘3年(1333) 8月5日 正五位下に叙位。
  左衛門佐に任官。駿河国守護になる。

 その後も兄:義貞と行動をともに各地を転戦した。


・建武元年(1334) 建武の新政
脇屋義助は弾正大弼(正五位上)の官職を賜った。


建武の新政で鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は、倒幕の主役の武士
をないがしろにした。そのため、足利高氏は朝廷に反旗を翻し、光厳天
皇を擁護して皇位につけた。北の京都と南の吉野に2人の天皇が立った。
足利方の北朝と後醍醐天皇方の南朝が争った南北朝の戦いが始まった。


 南朝方には、村上義弘の率いる村上水軍や越智氏から出た大祝氏、
 河野氏の分家:土居氏、得能氏、重見氏がついた。

・建武2年(1335) 伊予の河野通盛は北朝方の足利尊氏についた。
  後に、河野氏通盛が湯築城を築いた。
   

・延元元年・建武3年(1336) 刑部卿に転任。
   武者所の五番となる。
  新田兵庫助義助・・・

  湊川の戦い・・・
 楠木正成が戦死。  
  →勝利した足利勢は遂に入京。
   後醍醐天皇は比叡山に退去した。
新田氏一門は一時は後醍醐天皇に切り捨てらた。  
  堀口貞満の必死の嘆願で恒良親王らを報じて越前に向かう
  ことになった。
しかし、後醍醐天皇は比叡山を下り足利尊氏と和睦。
  ★恒良親王に渡した神器って一体何だったの?の世界だ。

  越前には続々と足利勢が来襲してきた。
  
  金ヶ崎城が囲まれた。
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 新田義貞・脇屋義助兄弟は城を脱出し、杣山城に入った。
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  新田義貞の嫡男:新田義顕と恒良親王兄:尊良親王は
  金ヶ崎城中にて自害、恒良親王は捕えられ京に護送された。

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★南朝方についた伊予の土居通増・得能通綱も
 北陸で、2人とも討死した。
 (★後、この2人の子どもが脇屋義治を保護した。)


・延元3年・建武5年(1338) 新田義貞の戦死。
  福井市の灯明寺畷→新田神社
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  →越前国の南朝方の指揮を引き継いだ。


【2】新田義貞を継いだ脇屋義助
・延元4年・暦応2年(1339)    
  従四位下に昇叙。
兄:新田義貞亡き後の軍勢をまとめた。
越前:黒丸城を攻め落とした。

   徐々に斯波高経が勢いを盛り返した。

・興国2年(1341) 杣山城が陥落。
  越前の南朝方は駆逐された。
  結局、幕府軍に敗れて越前から退いた。
越前→美濃・尾張と転戦し、南朝と合流した。
 ★言い方を変えると、
  越前→美濃・尾張と落ち延び、南朝と合流した。 


 吉野に入る。   
  8月15日 後醍醐天皇は義良親王(=後村上天皇)に譲位。
  8月16日に後醍醐天皇は没。

新田義貞&後醍醐天皇の死去・・・・
  ますます南朝方は弱体化していった。



【2】脇屋義助の脇役→主役=新田一族のまとめ役へ   
・康永元年・興国3年(1342)
後村上天皇は中国・四国方面の総大将に任命した。
 脇屋義助は四国&中国の南朝方の取りまとめ役として総大将に
 なったのだ。

即位間もない後村上天皇は、綸旨や、軍勢催促・所領安堵
 を行った。南朝方の弱体化に焦っていたのだ。

南朝方総大将:脇屋義助の任務は大変な負担であったろう。
  左馬権頭、弾正大弼などの官職についた。


脇屋義助は勢力を保持している伊予国今治に渡った。
伊予守となったのだ。
 伊予で足利勢と戦った。
脇屋義助は国分寺で軍議を練った。
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 伊予の国府にて急な病に倒れ、帰らぬ人となった。、急死した。
  (享年38歳)


脇屋義助が病に倒れなければ、南北朝の動乱はもう少し違った
 かもしれない。歴史に「〜〜タラ」「〜〜レバ」はないのだ。



脇屋義助の死を知った讃岐の細川氏(★友達の細川の先祖)は、
 大館氏明(脇屋義助の甥)の守る世田山城を攻め、落城させた。
 
以後、南朝方は急激に力が衰えていった。〜〜〜〜

 
【3】■▲●  脇屋義助の墓 ●▲■
@愛媛県今治市・・・
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A鳥取県倉吉市の大蓮寺
  山名時氏が関わっている。

★群馬の太田新田&鳥取県倉吉の関係
1)新田一族の山名氏の関係する土地である。
2)新田一族の脇屋義助の支配権のあった場所である。
  鳥取県倉吉市の大蓮寺に脇屋義助の墓があるそうだ。
3)新田一族:安房の里見一族の終焉の地。
 ★頭の中に、下仁田里見一族の「里見哲夫大先生と
  御孫様のことが浮かんだ。倉吉にもいつか行かなくちゃ。

 
※昭和8年(1933) 群馬県太田市の新田義貞館=明王院=安養寺館
  から脇屋義助の板碑が発見された。
 

【4】脇屋義治
・康永元年・興国3年(1342)
 脇田義治は里見氏所領:越後の波多岐荘や妻有荘に向かった。
 しかし、軍勢としては、応援軍:越後里見一族を束ねる大井田氏弼?
 だった気がするが・・・

 (★新潟県十日町市史)
 新田義貞の次男義興、三男義宗らと合流して東国で活動するよう
 になった。

【5】南北朝時代中期・・・
・観応年間(1350〜1352) 観応の擾乱
兄:足利尊氏 VS 弟:足利直義
足利政権(室町幕府) 実態は足利政権だけにとどまらず、対立
 南朝と北朝の対立
 それを支持する武家や、公家と武家どうしの確執・・・
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(★足利尊氏と直義:峰岸純夫著)



【6】脇屋義助の子:脇屋義治の動向
・正平7年(1352)  南朝の一斉蜂起。
@畿内
 北畠顕信・千種顕経・楠木正儀+足利直義派残党
A上野国
 新田義宗、義興と義治は宗良親王を奉じて上野国で挙兵した。
B信濃国 
 征夷大将軍:宗良親王も挙兵。
C北条時行の残党 
D足利直義派残党
E上杉憲顕
→鎌倉に進撃。鎌倉を一時的に占拠。

最終結果・・足利尊氏軍が勝利。新田義宗・脇屋軍が敗れた。
・南朝:正平7年・北朝:文和元年(1352)から2年間
 相模:河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治ととも河村城に
 籠城し、新田一族同族:畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃
 をしのいだ(伝)。
 しかし、南原の戦いで敗れ、河村城は落城し河村一族の多くは
 討死した。
 新田義興・脇屋義治は中川城を経て甲州に逃れた。
@宗良親王は信濃に逃亡。
A新田義宗&義興、脇屋義治は越後へ逃れた。
B北条時行は捕縛されて処刑された。

・文和2年(1353)11月5日
 脇屋義助の子:義治や新田義貞の子:義興&弟義宗は、
 越後小国城(長岡市)で南朝の兵を挙げた。

 (★小国城は弥彦神社近くで、後に直江兼続の弟が入城)
 北朝軍の和田義成&景茂に小国城を攻められ落城した。
 小国政光は天神山城を拠点に南朝方として活躍した。
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・正平23年(1368) 足利義詮&足利基氏が死亡。
  新田義宗と脇屋義治は再度上野国沼田、越後国境周辺で挙兵
 した。
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 上野沼田荘の戦い(群馬県沼田市白沢小学校)
  新田義宗は破れ、戦死した。
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(★沼田市旧白沢小学校の敷地内&隣の神社)
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  宗良親王・脇屋義治は出羽国羽黒山に落ち伸びた。
 ★新田一族の天童氏・延沢氏などがいるからである。
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◆里見氏・・ちょっとおまけ。
■承久の乱(1221)・・・里見義直が戦功
@里見義直は、+京都殷富門蔵人・・・
 後白河天皇皇女:富子内親王の領地の蔵人で京在住。
A2男:里見頼成は美濃:平野庄に在住。
 →美濃に所領=美濃:平野庄・・・
 岐阜県大垣市平野町円教(興?)寺内
B3男里見義景・・出羽(山形県天童市)に移住。
  子息養子説&嫡子:里見吉宗説で不明。
出羽里見氏は、里見義成の4男:義直にはじまる家系
 である。子孫:里見義直が承久の乱(1221)で戦功あり、
 里見義直の3男:里見義景が出羽国成生庄(現:山形県
 天童市)を所領として出向いた。ここを拠点に勢力を持
 った。

C4男里見義宗・・・康永4年(1345) 
 民部少輔(従五位下)に任じられ、
 足利尊氏の天竜寺供養の随行者
 享徳の乱・・鎌倉公方足利成氏の家臣として活躍。
 →安房里見初代?(峰岸純夫説・久保田順一氏は否定)
@里見義直の3男:里見義景
●里見義景・・・出羽(山形県天童市)に移住。・・・
子息養子説・嫡子:里見吉宗説あり。

羽黒山で再興を計ったが、果たせなかった。

 宗良親王の勧めで伊予の村上師清を頼ることにした。
伊予:今治はかつて、脇屋義助が亡くなった地である。

・正平25年・応安3年(1370~
脇屋義治の子:義則は出羽逃走直後に没した。




【6】脇屋義治の伊予在住と子孫の動向
・永徳4年(1384)村上師清を頼って、越智大島(愛媛県今治市宮
  窪町・吉海町)に落ち延びてきた。
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 (★今治城の北には能島がある。)
村上師清は信濃源氏:村上氏・・武田信玄を2度破った村上義清と
 先祖が同じなのである。
※『尊卑分脈』・・河内源氏の庶流信濃村上氏を起源とする説である。


 村上師清は脇屋義治一族に大島内の「稲井城」を与えた。
脇屋義治は姓を「稲井」に改めた。


 村上師清は足利尊氏の軍門に下った。
 
 稲井義宗・稲井義治を湯の山日浦(松山市道後温泉)
 に避難させた。
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 そして、村上師清は南朝側の土居氏&得能氏の子に保護を
依頼した。

新田義貞に従軍して北陸で、2人とも討死した土居通増
 ・得能通綱の子孫である。
 
画像

 土居氏&得能氏は脇屋義宗と義治を宇和郡に避難させた。
  
 村上師清は脇屋義宗の3男と娘、脇屋義治の次男の人を引き
 取り、3人を養子にした。


 村上師清は死亡。
 長男:村上義顕が村上氏宗家を継承した。
 3人の子どもを弟として養育した。

 
村上義顕は、
@新田義宗の三男を「村上義久」と名乗らせた。
  村上義久には自分の妹を嫁がせた。

A脇屋義治の次男を「村上義俊」と名乗らせた。
   村上義俊には自分の姪を嫁がせた。

B新田義宗の娘:好姫・・・
   自分の三男:左馬太夫の嫁とした。

C新田一族:脇屋義治(稲井義治)の子:稲井家治を
  次席家老にした。土生小丸城主2048石を与えた。
  支那貿易を担当させた。

 
村上義顕には3人の男子がいた。長男:雅房を能島に、二男:吉豊を
因島に、三男吉房を来島を拠点とさせた。能島村上、因島村上、来島
村上の村上三家が生まれた。


〜〜〜〜〜〜村上水軍〜〜〜〜〜〜

・天正14年(1586) 豊臣秀吉は瀬戸内海における海の関所を全廃。
・天正15年(1587)『海賊禁止令』を発令した。
能島海賊衆の頭領:村上元吉は堂々と通行料を徴収した。
能島水軍の村上元吉、因島水軍の村上吉忠らは豊臣秀吉の定め
 た海賊停止令によって能島を離れた。同時に活動の場を失った。

・慶長5年(1600) 伊予古三津浜の戦い
毛利氏は、関ヶ原の戦いの混乱に乗じて、河野氏の旧臣や水軍衆
 に働きかけて蜂起させた。村上元吉らは安芸国竹原から出陣し、
 伊予国三津浜(現愛媛県松山市古三津)に上陸した。河野氏旧臣
 の平岡直房らと合流し正木城(松前城)へ迫った。
 これに対して、加藤嘉明の弟:加藤忠明、足立重信、佃十成
 は三津刈屋口に布陣していた毛利軍に夜襲をかけた。
 村上元吉と副頭領・稲井義直(脇屋義助の末裔)などが討死した。
鎮海山城・・・★行ってみたいな。

◆◆ 参考にしたHp ◆◆
@しまなみ人:謎その43 脇屋義助の子孫はどうなったのか?
http://0845.jp/shimanami/archives/002937.shtml

◆◆ 土生町歴史探訪講座 ◆◆
http://0845.boo.jp/pdf/have/s04.pdf


参考文献・・・いろいろ。


★明日は太田30城一覧かな?

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