城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心●徳川家康の姓名変更の謎『松平元康→徳川源家康』

<<   作成日時 : 2013/03/11 07:00   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 2

3月11日、脳裏の刻めこめれた東日本大震災から2年経つ。・・・
群馬の旧尾島町では「徳川氏発祥の地」と宣伝しているが、
一般的には徳川家康の家系詐称説が有力説のようだ。徳川家康は
「竹千代→松平元康→松平家康→得川藤原家康→徳川源家康」
となったようである。つまり、源氏系→藤原の新田系世良田系の
子孫が松平初代:松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となり、松平
親氏を名乗ったという説を作り上げたのかもしれないな。

画像

 (★旧尾島町世良田の新田庄歴史博物館前の系図)
画像

 (★旧尾島町満徳寺・徳川義季館前)


【1】新田氏→松平氏
鎌倉時代、新田義重の子・義季は、父より新田庄のうち六郷を譲り受け
て徳川郷へ居住した。
しかし義季は世良田氏と得川氏のどちらを名乗ったかは不明。
 得川=徳川義季の子:頼氏は世良田弥四郎と名乗っていた。

・元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉幕府倒幕の挙兵。
世良田頼氏の曾孫:世良田満義は新田義貞に従い、鎌倉攻撃に
従軍している。大館・堀口・世良田などが大将であった。
(★新田一族の盛衰:久保田順一著)

南北朝の動乱の時、南朝:後醍醐天皇に新田(世良田)政義は
新田義貞とともに味方した。世良田政義は寺尾城=高崎茶臼山
城に籠もる醍醐天皇の孫:伊良(ただよし)親王に味方し、
北朝の平井城:上杉憲定と戦った。世良田政義は世良田満義は
伊良親王と信濃に落ち延びた。しかし、信濃浪会(現長野県下
伊那郡浪会村)で戦った。
(★高崎茶臼山城の看板)
・世良田義政は世良田に退いて、足利尊氏・直義と和解した。
しかし、武蔵:松山にいた関東管領:足利基氏に世良田館
 が攻撃され、世良田義政は長楽寺で自刃した。
(★新田義貞:峰岸純夫著)

説@
※世良田満義の次男:政親は三河松平郷へと逃亡した。
そして、世良田政親は一時出家し、時宗の僧になった。で、
松平郷の領主:松平太郎左衛門少尉信重の娘婿となった。
松平親氏を名乗ったという。松平親氏と嫡子:泰親(弟説・
叔父説)の代には松平郷近隣に勢力を拡大したらしい。
 (★出典・・・忘れた。)

松平親氏以前の記録は、徳川家康が系図を整える頃には
すでに失われていたものと考えられる。



説A
新田義重の末子:義季が上野国新田郡世良田村徳川郷に住み
徳川氏を称し、その後頼氏→教氏→家時→満義→政義→親季
→有親→親氏に至ったとされている。徳川親氏が徳阿弥とい
う時宗の僧となって諸国をめぐるうち、三河国松平郷の土豪
松平太郎佐衛門信重の娘婿となり、これが松平の初代に数え
られるという。松平=徳川系図が家康以後の創作であり、全く
信じることのできないものであることは、定説となっている。
したがって、三河松平氏は親氏以前のことは不明であるとしか
いうしかないようだ。とはいえ、『徳川家康公伝(中村孝也氏著)』
には、至徳二年(1385)の信濃浪合の合戦で、宗良親王と思われ
る宮方に属して戦い、戦死した人たちの中に世良田政義・有親の
名が『鎌倉大草紙』などに見えることに注目され、「有親がその
子親氏とともに、諸国を流浪したこともあり得ると思える」と
している。・・・尊卑分脈
(★ウキペディアより編集)

◆◆ 松平一族のHp ◆◆
http://www2.harimaya.com/aoi/matdaira.html
江戸期以降の一般系図では、松平親氏より先代の世良田氏を、
世良田政義→親季→有親→松平親氏の直系系図としている。
親氏→泰親は不明である。

得川郷を出た世良田親氏は、相模国の清浄光寺=遊行寺に入り、
徳阿弥と称して遊行僧となったという。そのとき父:有親も一緒
で、有親は長阿弥と号し、父子は信濃国を経て三河に入る。
三河国で世良田親氏は坂井郷の坂井五郎左衛門に娘婿として迎え
られ、男子をもうけた。その男子がのちに広親(親清)と名乗り、
徳川幕府の譜代の大名:酒井氏となる。しかし。妻は病死してし
まったために、世良田親氏は坂井郷を離れて加茂郡松平郷に移り、
ここに屋敷を構える松平太郎右衛門尉の一人娘の婿となった。
これが松平氏と徳川(得川)氏の合流であり、松平氏はこの親氏を
もって初代とした。やがて、親氏が没すると、弟の泰親が継いだ。
(★「寛政重修諸家譜」★大久保彦左衛門忠教の「三河物語」)

※初代:世良田親氏や2代:世良田泰親については伝説的な人物
と言ってよく、来歴はまったく不詳である。証拠もない。
松平氏が歴史上にはっきりするのは、世良田泰親を継いだ3代:
信光からである。
◆◆ 歴史の勉強:「松平氏」 ◆◆
http://roadsite.road.jp/history/daimyo-sp2/matsudaira/matsudaira01.html

松平2代泰親・3代信光が「世良田」姓だ。


松平信光は、室町幕府の政所執事:伊勢氏の被官となり、
京都に出仕したと記録される。

(★ウキペディア)
松平信光は三河の足利将軍家直轄領である御料所の経営に
乗りだし、松平郷から額田郡岩津城(岡崎市北部)に居城を
移した。西三河の平野部に勢力を拡大し各地に諸子を分封し
て十八松平(徳川本家=安祥松平家)と称される多数の分家を
創設した。安祥城(安城市)を与えられた次男:親忠が4代→
嫡子:長親5代の安祥松平家が勢力を拡大し、松平宗家化する
とともに戦国大名へと発展していった。安祥松平家の台頭後も
宗家の座を狙う松平一族の間に内紛が続き、6代:信忠は松
平一族を抑えられなかった。
代わって13歳で7代:清康が継いだ。家康の祖父7代:松
平清康も「世良田」姓を名乗っていた。松平清康は「松平氏は
上州新田氏の庶流の末裔である。」と言い出した。この頃は、
近隣諸侯への「源→新田→世良田の血統付き」であることを誇
示したかっただけであろう。遠江:今川&甲州:武田&美濃:
土岐&尾張:斯波&三河:吉良などは全て源氏系の一族であっ
たからである。ホントに回りが源氏一族で松平清康は肩身が狭
かったのであろう。だから、松平清康が「松平も源氏一族の末
裔である。」と見栄を張りたかったのであろう。と勝手に想像
している。岡崎城などもゲットした。松平清康は尾張へと進出
したがに刺殺されてしまった。
8代広忠は10歳で、三河と松平一族を統御できず駿河の戦国
大名:今川義元の庇護下に入った。またも家臣に刺殺された。



【2】徳川家康の名前の変更

広忠の嫡子:竹千代が9代。松平元康も『世良田』姓を名乗った。
徳川家康がそうした「世良田姓」名乗ることにしたのか、
先に先祖が名乗ったのかは不明である。

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に今川義元が討たれた
時、今川氏から独立しようと考えた。松平家康は8歳から12年
間を今川家の人質として駿府で過ごした。松平元康の「元」は
今川義元から一字拝領したもので、松平家が今川家の支配下にあ
ることを意味していたのだ。
松平元康の「元康」→「家康」への改名は、今川家との決別を
意味したものと思われる。名を松平家康と改めた。

源義家の「家」を使ったのかもしれない。
松平家康は織田信長と和睦し同盟を結ぶ道を選んだ。


・永禄7年(1566) 松平家康は三河の国を支配下に置いた。
三河の小豪族から成り上がって三河地方の支配権を確立した。
朝廷=天皇から、正式な支配権のお墨付きが必要である。」と
考えた。武力支配だけでなく、朝廷から正式に「三河守」という
称号=ブランド名をもらって、形式上も名目上も「完全な三河の
支配者」になりたいと考えたのだ。ところが、三河守は従五位下
にあたる官職で、従五位下は、藤原氏とその系統・源氏などの限
られた姓の者しか任じてもられない。松平姓のままでは官位を得
ることはできない。
確かに松平は元「世良田」である。その辺
から糸口がないだろうかと思った。
松平家康は、「松平家は元をたどれば、藤原姓も関係していて、
世良田も関係する姓。由緒ある血筋の家柄である。」とするために
系図を書き換えることを思いついたのだった。


【第一段階】
そこで、松平家康は近衛前久と通じて、神祇官:吉田兼右に姓を探し
てもらうことにした。すると「得川」という姓が見つかったのだ。
新田氏の流れを汲んでいて、過去に藤原氏一族であると名乗ってい
たことのある「得川氏」をどこからか見つけだしたのである。

【第二段階】
松平家康は「得川義季の子孫」としての系図を吉田兼右に書いて
もらうことにした。・・・★お礼もたっぷりして・・・
松平家康は「昔、藤原氏の一族であると名乗っていた得川氏」とい
う系図に自分の名前を書き込んだ。 つまり、この段階で
「自分は、藤原氏の流れを汲む得川の末裔である」とした。
松平家康は、まず、「松平は、元は藤原氏→新田氏→得川氏の末裔
なので、姓に戻す。」=系図作成という手順を踏んだ。

【第三段階】
・永禄9年(1566) 
 松平家康は得川の系図に松平の系図に組み込んで申請した。
 朝廷から勅許を得て、先祖:得川義季以来の「得川」
 姓を復活させた。
しかし、得川家康の公式文書は「藤原家康」となった。

【第四段階】
同時に官位「従五位下得川三河守家康」に叙任された。
三河守は、今川三河守義元と同じ官職名であった。
これにより名実ともに三河の領主であると示すことになった。

【第五段階】
そして、縁起を担いで「徳川」姓に改め、「徳川家康」となった。
★「得川」を「徳川」に変えたのは徳川家康の思いつきなのだ。
「徳川」という姓は、源氏の一門である新田政義の子孫であると
いうことも一つの理由になっているが、新田義貞の末裔とされて
いたので、そういう系図を捏造したのである。

【第六段階】
ただし、徳川姓は徳川家康の一家のみが名乗れることにした。松平
17諸家の姓はそのまま「松平」に留めることにした。
徳川家康は自分の家系を松平一族中で別格の存在として完全
に認知させることにした。つまり、松平諸家は家臣「譜代」に位置
づけたのだ。従って、同盟関係から徳川と松平との主従関係とな
った。

【第七段階】
そして、徳川家康「徳川姓」に箔をつけるためだけでなく天下取り
の足がかりためには、源氏の子孫の系図も欲しかった。
・天正18年(1590)徳川家康は関東入封した。
桐生にいた源氏系新田義兼の娘婿:岩松氏がいることを知った。
徳川家康は「源・新田・岩松家の系図」が必要になった。
すぐに、岩松守純を呼び出し、「新田系図」の召し上げて徳川
義季の子孫となるべく画策したのだった。しかし、岩松守純は
拒否した。お家再興はなったが、知行20石の旗本となった。
新田姓を名乗ることも許さなかった。
岩松守純はしかたなく、中世の世良田今井の古城を修築して
居館とした。この屋敷が岩松陣屋である。
岩松氏は豊純、秀純と続いた。
・寛文3年(1663)4代将軍:徳川家綱の時に200石を加増され、
 下田島に移った。・・・・・★世良田から車で5分程。
徳川家康は源氏でも、新田系ではなく、足利系と名乗るように
なり、足利系図→徳川系図を作り上げている。

新田岩松は母が新田系で、父が足利系であるからである。


【第八段階】
「徳川は源氏の一族である」と称するようになった。
徳川家康が征夷大将軍を目指すにあたって、学者に研究させた。
「源氏でない者が、長らく征夷大将軍に任じられた例はない」
と判断したのである。今度は、徳川家康は
「藤原姓であるよりも源姓である方が有利である。」
と考えたのである。

【第九段階】と考えたのである。そして、
「徳川は源氏一族である新田氏の系統である」
と称するようになった。
正式な署名は、「藤原家康」→「源家康」となった。
★源氏となっていたことが、将軍になる際にスムースに運んだのは
 確かなようである。
・慶長5年(1600)徳川家康が征夷大将軍に任じられた。

【第九段階】
しかも、徳川を先祖の地とした。
満徳寺を「縁切り寺」「駆け込み寺」として、鎌倉の東慶寺と
同格にしたのも意図的なものであったのであろう。徳川義季
の娘の建てた寺だからである。
義季は世良田あるいは得川(徳河)姓は不明であったが、
徳川義季を改名させたようだ。そして、徳川義季の館跡とした。
画像

画像



江戸時代
徳川家康は自身の子孫の中でも、将軍家、御三家の嫡流に
しか「徳川姓」を認めなかった。後の14代の将軍と御三家の当主
だけが名乗ることになった。8代将軍:吉宗の時に創設された
御三卿の当主も名乗ることになった。つまり、『徳川』は松平一族
の中で、「本家当主としての征夷大将軍および将軍を継承する地位
にある者だけが許される苗字」ということになる。
親藩は、御三家・御三卿以外の「松平家」を指す。
松平姓は徳川家康の血を引く親藩の多くの家で用いられることと
なっていった。松平姓の家は増えた。
また、徳川氏と縁戚関係にある有力譜代大名や外様大名にも松平の
名乗りが許された。
前田、池田、黒田、蜂須賀、山内、島津、毛利、浅野、伊達の各家
なども松平を称することが許されたのだ。
18松平は、大半は旗本クラスであった。

徳川家康4男:忠吉・尾張家3代綱誠・7代将軍家継(幼名)は
 世良田姓を称している。
 



3代将軍:徳川家光は世良田東照宮を長楽寺から独立させた。
  日光東照宮の一部を移した。
画像



★小牧山城は、源の・・・であるのだ。誰だっけ?
画像



・明治新政府は「徳川慶喜が朝敵であるため、松平姓を称するのは
 不適当である。」として、本姓に復するよう布告した。
 松平氏を称していた一族は本来の名字を名乗ることになった。
 
・現在の子孫は、徳川・松平一門の会の会員数は約600名である。
(★ウキペディアより)


★参考文献・Hp・・・多数




★明日は、群馬旧新田町にしようかな?



【送料無料】 徳川・松平一族の事典 / 工藤寛正 【辞書・辞典】
HMV ローソンホットステーション R
商品の詳細ジャンル哲学・歴史・宗教フォーマット辞書・辞典出版社東京堂出版発売日2009年08月ISB

楽天市場 by 【送料無料】 徳川・松平一族の事典 / 工藤寛正 【辞書・辞典】 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

【1000円以上送料無料】徳川将軍家・松平一族のすべて 江戸幕府を支えた血族総覧/新人物往来社【RCP】
オンライン書店 BOOKFAN
著者新人物往来社(編)出版社新人物往来社発行年月2010年01月ISBN9784404038043ペ

楽天市場 by 【1000円以上送料無料】徳川将軍家・松平一族のすべて 江戸幕府を支えた血族総覧/新人物往来社【RCP】 の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
昨夜は何度も電話ありがとう。
留守してごめん二人とも別々に遅かった(笑)ので・・・
マウスピースは私の友人のトランペッターのオリジナルモデルです。
誕生日と陶器のお礼をこめてプレゼントしまーす。
でも、貴方のこの前の作品すばらしいね。食器と指定した
私がばかでした!  またね♡  れいこねえさん
神奈川より愛をこめて
2013/03/11 09:21
とっとも柔らかで、鳴りのいいマースピースでした。ありがとうございました。ブランド名が分からず、不思議に思っていました。ジェットトーンに似ていたので不思議でした。とってもいいマースピースです。
れいこねえさんへ
2013/03/11 20:51

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心●徳川家康の姓名変更の謎『松平元康→徳川源家康』 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる