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zoom RSS 箕輪初心★「伊香保温泉の歴史詳細」&【文人墨客】

<<   作成日時 : 2013/02/05 06:56   >>

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今日も37,5℃。腹痛が3日間続いている。病院に行かなくちゃ。
★上州の名湯:伊香保温泉は、旅情あふれる石段街で有名である。
現在の石段街に関与したのが、武田勝頼&真田昌幸だったのだ。
温泉街には大小様々な旅館・温泉宿・土産屋が建ち並ぶ。共同
湯もある。徳冨蘆花の名作『不如帰』の舞台にもなった。竹久夢
など多くの文人墨客が訪れている。先日、ブログに書いた若山
牧水
も来たのだった。伊香保温泉は榛名湖周辺の観光の拠点で
もあるのだ。今回は、徳富蘆花記念文学館で売っている『伊香保
みやげ』という文人墨客の本を参考に書いてみた。
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◆◆ 箕輪初心★竹久夢二 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201105/article_25.html

◆◆ 箕輪初心★若山牧水「山上湖へ」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_25.html

★伊香保温泉は明治から昭和初期にかけて幸田露伴、夏目漱石、
土屋文明、与謝野晶子、寺田寅彦、萩原朔太郎、島崎藤村、芥川
龍之介など多くの文人墨客が訪れた。温泉情緒ある温泉場として、
小説や映画の場面によく登場してきた。中でも、徳富蘆花&竹久
夢二は伊香保を最も愛した文人である。 様々な文人から愛された
伊香保温泉は文学史上、重要な場所なのであろう。
(★伊香保みやげ:幸田露伴など・・大正8年の復刻版)


【1】伊香保温泉の歴史
@弥生時代・・群馬では縄文時代
  垂仁2年(32)説・・・伊香保温泉1900年前発見説
★崇神天皇の「古事記崩年干支」戊寅は378年だから
変な話である

A古墳時代・・万葉集に『伊香保』の名が登場している。
 万葉集には上毛野国の和歌は25首+1首(沢渡)があるが、
 そのうち、9首は「伊香保」である。★厳密には、伊香保=
 榛名山のことである。
『伊香保嶺に 雷(かみ)な鳴りそね 吾が上には
   故はなけども 児らに因(よ)りてぞ 』
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 伊香保の地名は、『続日本紀』「三代実録」に登場する。

B奈良時代・・・1300年前説
 670年頃、榛名山の2回目の火山活動した
  伊香保に温泉が湧出した。
 ★伊香保温泉の始まりか?


C平安時代
『延喜式』・・・伊香保が登場する。


D鎌倉時代


○南北朝時代
『神道集』・・・伊香保の昔話3話が登場する。


E室町時代
■≪堯恵(ぎょうえ)≫
・文明18年(1486) 伊香保温泉7泊・・・榛名湖に
 『北国紀行』


■≪飯尾宗祇≫・・・連歌師。
 2回、上野に来ているらしい。
・文亀2年(1502) 伊香保温泉に入湯した。
 『伊香保三吟百韻』・・宗祇+弟子2人
★宗祇は、大戸から草津温泉にも行っている。


F戦国時代・・
天文〜永禄年間(1530~70) 関東管領:上杉憲政の家臣:
子持の長尾氏から家臣団である木暮・岸・千明・島田・大島・永井・後閑
の各家臣が伊香保の地を与えられ温泉経営に当たることになった。

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武田勝頼の命令により、真田昌幸が現在の温泉
   街の原型を造った。

■≪武田勝頼≫
・承安5年(1575)長篠の戦い
織田信長&徳川家康連合軍 VS 武田勝頼
 結果・・・武田勝頼軍の大敗
◆◆ 箕輪初心◎【長篠の戦い前編】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

◆◆ 箕輪初心◎【長篠の戦い前編】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_27.html
 武田勝頼が、負傷した兵士を傷癒すために、当時、岩櫃城城主:
 真田昌幸に命じて、温泉療養施設を造らせたものが始まりと言わ
 れている。共同浴場や旅籠は現橋本ホテル付近の源泉近くにあっ
 た。『千明元屋敷』が現在でも知られている。真田昌幸はより多
 くの戦傷者を収容するため湯宿を広い場所に移転することにした。
 現在の石段街のある場所である。工事は現在の伊香保露天風呂の
 隣のから湧き出す源泉かた木製の導管で引き、多くのの浴場に分
 湯する工事を行った。分湯は「小間口制度」と呼ばれているもの
 である。石段も造らせた。これが現在の石段街の原型となった
 のだ。つまり、『千明仁泉亭』『木暮金太夫』『岸権旅館』などは、
 戦国時代に創業が開始されたことになる。そして、千明・木暮・
 岸など武田家臣の土豪がこの地に残り、代代温泉宿を引き継いだ
 のだ。

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■≪武田勝頼≫ (1546〜1582年)
武田信玄(晴信)4男。母は諏訪頼重の娘。元服後に諏訪氏を称し、
信濃伊那郡高遠城主となる。父信玄の死後家督を継ぎ、織田・徳川
・北条氏に抗して奮戦する。美濃・三河進出を企んだ。しかし、
遠江の高天神城の戦い、奧三河の長篠の戦いに敗れた。その後、
義理の叔父:木曽義昌や穴山梅雪らの反逆に遭い、天正10年(1582)
真田昌幸が勧めた『岩櫃城近くの潜竜院』に来ないで、甲斐の岩殿
城に向かう途中、天目山に追い詰められて自害した。

■≪真田昌幸
◆◆ 箕輪初心★真田3代   ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201111/article_29.html
http://53922401.at.webry.info/201111/article_30.html



G江戸時代・・・遊興保養地として栄えた。
※関所が設けられた。
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※売春宿も多かった。
旧群馬町の国府小西の寺には、梅毒になった女郎が平癒のため
 石造りの男根=珍棒に願いを込めた。



■≪高山彦九郎
・安永2年(1773) 『赤城行』・・・叔父:高山正業と赤城山登山
・・・後に、伊香保に宿泊した紀行文である。
◆◆ 箕輪初心★高山彦九郎 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_15.html



■≪十返舎一九
・文政元年(1818) 『善光寺草津道中金草鞋(こがねのわらじ)』



H明治時代
■≪ベルツ博士
・明治10年(1877) 楽山館・・・木暮八郎経営
・明治13年(1880) 『日本鉱泉論』・・伊香保を例にとって
改善すべき点を紹介した。・・・有名になった。
   
■≪大槻文彦≫・・・「言海」の著者
・明治12年(1879) 「楽山館」に泊まった。
 木暮八郎から依頼されたので、『伊香保志』にまとめた。
 伊香保の名前の由来は、
 「厳(いつ)く大きく秀でたるより・・・厳秀(いかほ)」
 
※「楽山館」は「凌雲閣」「千登世館」と名を変えた。
 全国の官公庁共済組合が買収し現施設を建設したものである
 「現凌雲閣」は、伊香保神社すぐ前の「紅葉」の隣である。
  浴室への廊下壁に3枚の錦絵は明治14年〜16年にかけて
 浴客の土産 として販売したもので、「楽山館」での風景を
 描いたものと言われている。
(★凌雲閣のHpより)


■≪新島襄≫・・新島八重を連れて群馬に4回戻ってきた。
・明治22年(1889) 2回目の時はは山本八重=新島八重と
 千明仁泉亭で療養生活をしたのだ。約1ヶ月だった。
 (★安中有田屋・・・湯浅治郎の子孫の方より)


■≪夏目漱石≫ (1867〜1916年)
・明治27年(1896)7月25日、伊香保温泉に向かう。理由は
@結核の療養のため(通説)・・・★手紙が残存。
A友人の小屋保治(1868-1931)が群馬県前橋にいるので
大塚楠緒子(1875-1910)は夏目漱石の恋人といわれている。
 東京女子師範付属女学院(お茶の水女子大学)を首席で卒
 業した。控訴院長:大恊ウ男は帝国大学の寄宿舎舎監:
 清水彦五郎に頼んで、婿養子を相談していた。そして紹
 介されたのが、夏目金之助と小屋保治であった。
 大恣緒子が好意を抱いたのは夏目漱石の方だった。
  
 夏目漱石は伊香保で木暮武太夫旅館に泊まろうとしたが、
 満員で泊まれなかった。泊まった旅館かは不明であるが、
 伊香保で小屋保治と会った。
 おそらく伊香保温泉で二人が相談したことは、大恣緒子
  のことだったであろう。(★ケペル先生のブログより編集)
 明治28年(1897)3月上旬、小屋保治と大塚楠緒子の披露宴
夏目漱石は出席した。夏目漱石は4月には、松山へ赴任した。
大恤ロ治は、ヨーロッパに留学後、東大教授となった。
 夏目漱石の「吾が輩は猫である」では水島寒月のモデルは
 大恣緒子であるらしい。
◆◆ 参考にした「ケペル先生のブログ」 ◆◆ 
http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_4d1a.html

■≪徳富蘆花≫ (1868〜1927年)
横井小楠門下の徳富一敬の次男として熊本県水俣に生まれた。
兄は思想家・ジャーナリストの民友社:徳富蘇峰(猪一郎)である。
同志社英学校で新島襄に学んだ。当然、新島八重にも世話になった。
トルストイに傾倒し、イスラエル&ヨーロッパ&ロシア旅行を敢行
した。新島襄の死に新島八重と徳富蘇峰は立ち会ったが、徳富蘆花
は立ち会えなかった。長年、兄:徳富蘇峰と絶縁状態にあったが死
の直前に和解した。享年60歳。
代表作『灰燼』『自然と人生』などがある。
・明治31年(1898)に、徳富蘆花の代表作「不如帰(ほととぎす)」
が、国民新聞に連載された。
「日清戦争の時代、封建的家族制度の中で繰り広げられる夫婦(武男
と浪子)の物語である。伊香保温泉の一室から物語が始まっている。
元になっているのは、薩摩出身の元帥陸軍大将「大山巌&会津藩
家老:山川重固の娘:山川捨松の子:信子がモデルになっている
のだ。

★伊香保温泉「千明仁泉亭」で執筆された作品である。
新島襄は山川捨松とも面識があったかもしれない。
ともに、岩倉使節団にいたからである。
新島襄はアメリカから通詞になった。山川捨松は津田梅子
らとともに子どものアメリカへの語学留学生であった。


■≪木下尚江
・明治39年(1906)10月〜40年(1908)12月
木暮金太夫旅館・・・1年2ヶ月逗留。
『懺悔』『霊か肉か』『乞食』『労働』などを執筆した。

I大正時代
・天正4年(1914) 湯元から現在の石段街に移住した。
        大屋14件からなる温泉街を形成した。

■≪竹久夢二≫(1884〜1934年)
岡山県生まれ。早稲田実業学校を中退。同年から新聞・雑誌など
にさし絵や詩を寄稿した。美人画、木版画のほか楽譜や本のデザ
インも手がけ、多く作品を残した。昭和9年(1934)富士見高原
療養所で死去(50歳)。
 伊香保を愛した人物といえば、小説家「徳富蘆花」&画家
「竹久夢二」が双璧であろう。
竹久夢二はある日、少女からの一通の手紙で伊香保温泉を知る。
「夢二先生は伊香保にいらっしゃったことがおありでしょう。
私は、お姿を見て声をおかけしたかったのですが気が引けて
言えませんでした」。
結局これは少女の思い込みに過ぎなかったのだが、夢二は手紙
を喜び、少女へ丁寧に返書を送っている。
竹久夢二が初めて伊香保を訪れたのはそれから8年後だった。
大正8年(1919)『宵待草』が大ヒットし、竹久夢二は有名になっ
ていった。それ以来、竹久夢二は伊香保がお気に入りの場所にな
った。
大正9年(1920)恋人:彦乃を亡くし、榛名・伊香保温泉を
訪れた。
やがて、榛名湖のほとり・・湖畔亭の北に住居兼アトリエを建て
た。そこを美術学校にしようと志したのだった。しかし、病に倒
れ、この世を去った。
平成6年にアトリエが湖畔に復元。・・・一般公開。
 (★「竹久夢二伊香保記念館」資料より編集。
◆◆ 箕輪初心★竹久夢二 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201105/article_25.html


●大正8年(1919) 『伊香保みやげ』が刊行された。
伊香保の印象を聞いた45人(著者も含)は、思い出を書い
た作品集である。
尾崎秀樹(ほっき)・・「新序」巻頭。編集に携わった。
  ゾルゲ事件の研究の第一人者である。
  私はこの作者の参考に編集した。

幸田露伴・・・「序」担当。
  伊香保は殆ど知らないので・・。

谷崎潤一郎・・「伊香保のおもひで」
東京人の行くところは『塩原』&『伊香保』である。
  私はは泊まったのは千明である。親切で居心地がよい。
56月の新緑は何とも言えない美観である。山には、
 桜や桃や藤やつつじや山吹が一時に咲き始める。
一昨年は、母の危篤に間に合わなかったので、一層感慨
深い。・・・

@芥川龍之介・・・「忘れられぬ印象」
高等学校の友達と2人で、赤城山や妙義山に登った序(つい
 で)に、伊香保に泊まっただけである。・・・
 ・・・紳士と仲良くなった。・・・高崎に着いて、金のない
 我々は、確か1円20銭ばかり借用した。

A徳田秋声・・・・「山上にて」
 草津に行くはずが・・・その夜、伊香保に泊まることになっ
 た一人の英国人と車窓から見える山々の話や・・・・
街を見下ろすような高い場所に・・・
 ★たぶん、「紅葉」か「楽山園=凌雲閣」だろう

B前田夕暮・・・「榛名の歌」6首・・・大正4年

C田山花袋・・・「雪の伊香保」
「まァ、此方に御当たんなさい。」
 かう言われて私と今年7つにな女の児をつれた妻とは、
 ・・(中略)・・・
 「ほ、つつじが咲いている。室は春ですな。」

D金子薫園・・・「夕月と河鹿(かじか)」

E小山内薫・・・「伊香保へ」
 外国人との交流を書いている。
★これは凄い表現がたくさんかかれている。

F有島生馬
 神奈川県横浜市出身の画家。
 有島武郎・有島生馬。里見クと続く兄弟。
 妻の信子は原田熊雄の妹。
 甥に武郎の実子である俳優の森雅之がいる。
「チエレミシノフの胸像ができあがらないので・・

G島ア藤村・・「温泉の宿」
「・・・しなびた乳房が朦朧と見える。・・・。
 ★潔癖症の作品は面白うねえ。

H生方敏郎・・「朝霧の這寄る伊香保より」
「朝きりは冷や冷やと寝ている枕元に這い寄ってきます。
 その霧は全山を立ち籠めます。・・・
 (中略)・・・」
★期待の生方敏郎君のコメントだ。きっと先祖が同じだ?

I山村慕鳥・・・「伊香保はどんなところか」
実家は高崎市旧群馬町棟高にあった。上郊村に移住した。
子どもの頃から良く出かけた。(10km程)
・石坂旅館が多かった。・・・インド人を案内した?
・千明に行ったこともある。
・木暮に女の外国人を案内したこともある。
 ★なかなか、面白かった。
◆◆ 箕輪初心★山村慕鳥 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201106/article_9.html



J萩原朔太郎・・・「石段上りの街」
 私の郷里は前橋であるから、自然子供の時から、伊香保へは度々
行つて居る。で「伊香保はどんな所です」といふやうな質問を皆
から受けるが、どうもかうした質問に対してはつきりした答をす
ることはむづかしい。併し簡単に言へば、常識的の批判からみて
好い温泉である。・・・(中略)・・・この温泉の空気を代表する
浴客は、主として都会の中産階級の人であるが、とりわけさうし
た人たちの若い夫人や娘たちーーと言つても、大磯や鎌倉で見る
やうな近代的な、中凹みで睫毛の長い表情をした娘たちではない。
矢張、不如帰の女主人公を思はせるやうな、少しく旧式な温順さ
をもつた、どこか病身らしい細顔の女たちーーである。前に伊香
保の愛顧者は女性に多いと言つたが、つまりその女性とはかうい
つたやうな、中庸的の夫人や娘たちである。不思議に伊香保とい
ふ所は、何から何まで女性的であり中庸的である。
 最近、私の友人で伊香保へ来た人には、前田夕暮君と室生犀星
君がある。谷崎潤一郎君と始めて逢つたのも此所であつた。この
人たちの伊香保に対する批評は概して可もなく不可もなしといふ
所であらう。
「子持山 若かへる手の 紅葉まで
   我はねもとおもふ 汝は何ぞと思ふ   万葉集
秀水園・・・「かみつけの湯」の露天風呂に萩原朔太郎の
「帰郷」の石碑がある。




K昭和時代
■≪林芙美子
「浮雲」は、
昭和18年(1943) フランス領インドシナ(ベトナム)に農林省の
タイピストとして幸田ゆき子は農林省役人富岡憲吾に出会った。
との男女のやるせない関係を描いた作品である。当初は富岡に否
定的な感情を抱いていたゆき子だが、やがて富岡に妻が居ること
を知りつつ2人は関係を結ぶ。終戦を迎え、妻:邦子との離婚を
宣言して富岡は先に帰国する。後を追って東京の富岡の家を訪れ
たゆき子だが、富岡は妻とは別れていなかった。失意のゆき子は
富岡と別れ、米兵の情婦になる。厭世的な雰囲気の作品である。
ゆき子は再会した富岡とよりを戻す。
終戦後の混乱した経済状況で富岡は仕事が上手くいかず、ゆき子
を連れて伊香保温泉へ旅行に行く。伊香保温泉 の「ボルネオ」
という飲み屋の主人:清吉と富岡は意気投合する。2人は店に泊
めてもらう。清吉には年下の女房おせいがおり、彼女に魅せられ
た富岡はおせいとも関係を結ぶ。ゆき子はその関係に気づき、伊
香保を去る。 (★ウキペディアより編集)

※御用邸やハワイ王国大使別邸なども作られた。
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※明治44年(1910) 渋川から路面電車も開通した。


【2】千明仁泉亭の宿泊者について
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@徳富蘆花・・・伊香保を愛した明治の文豪の常宿
  生涯10回宿泊し、ひいきにした旅館であり現存する。
『不如帰』・・海軍少尉川島武男と陸軍中将片岡毅の娘
 :浪子が、愛し合いながらも運命に翻弄される悲劇の
小説『不如帰』の冒頭を飾る宿である。
徳富蘆花は5回ここの離れで、小説&詩歌を書き、
  千明仁泉亭の特別離れで死んだ。

A川合玉堂・・・★数百万の60cm×120cmが2点
ちなみに、榛名神社の門碑の字が川合玉堂である。
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B新島襄・・・八重を連れて群馬に4回戻ってきたうちの
2回目は、山本八重=新島八重と1回泊まったのだ。
約1ヶ月の療養生活だった。

C竹久夢二・・
★説明してもらったが、あとは忘れた。
★伊万里焼きの直径120cmの手書き陶器
★風呂・・・2回
 深くていいよ。・・・源泉の茶色の湯である。



【3】森秋旅館の宿泊者
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 @野口雨情・・・
A野口雨情の長男・・・高崎市箕郷町在住
B野口雨情の長男・・・栃木県那須市の野口雨情博物館館長
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_
【4】木暮金太夫・・


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昭和31年(1956) バスの台頭で電車がに全廃される。

L平成時代
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N現在
3月・・・石段人間ひな壇祭り
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9月・・・伊香保まつり
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◆◆ 箕輪初心◎伊香保まつり ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201109/article_20.html




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箕輪初心★新島八重の周辺@「徳冨蘆花」
★徳富蘆花は、同志社大学に2回学んでいる。つまり、新島襄の弟 子である。山本覚馬の次女:山本久栄と熱烈な恋愛をする。 新島襄の妻:新島八重=山本八重から見れば、山本久栄は姪に 当たる。二人の恋を父:山本覚馬や新島襄や新島八重は反対し た。ここで、徳富蘆花は同志社大学を中退した。『黒い目と茶 色の目』は、山本久栄をモデルにしたいる。この徳富蘆花は 伊香保が大好きで、『千明仁泉亭』を常宿にして、10回訪れて いる。伊香保で徳富蘆花の出世作「不如帰(ほととぎす)」が書 かれたのだ... ...続きを見る
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2013/02/06 07:13
箕輪初心◆群馬【第23回伊香保石段ひなまつり】
平成25年(2013)3月2日(土)・3日(日)【第23回伊香保石段 ひなまつり】が行われている。13:00〜保育園児・幼稚園児が 石段街に造られた特設ステージに整列する。今年で23回目 を迎える。平安雛衣装を身に着けた園児雛のかわいい姿が 石段街に並ぶのだ。3日、今日も13:00〜あるそうだ。 ...続きを見る
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2013/03/03 05:19

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