城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心★新島襄周辺『内村鑑三の生涯『&「高崎の内村鑑三の碑」

<<   作成日時 : 2013/02/23 08:33   >>

ナイス ブログ気持玉 1 / トラックバック 2 / コメント 0

★「平和の使徒 新島襄」&「心の灯台 内村鑑三」など
と誰が上毛かるたの語句を決めたのであろうか?
きっと偉い人なんだろうけれど、意味が分かんない。
2人も江戸=東京生まれキリスト教偉人である。
「余は本のため、日本は世界のため、世界は基督のための、
基督は神のための也。」

画像

 (★写真?)

●高崎の頼政神社の内村鑑三の記念碑
画像


画像

画像


◆◆ 箕輪初心★『新島襄1』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html

◆◆ 箕輪初心★『新島襄2詳細編』  ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201301/article_1.htm


◆◆ 箕輪初心★新島八重周辺「湯浅治郎&八重さんの醤油」 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_8.html


◆◆ 箕輪初心★住谷天来 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_20.html

◆◆ 箕輪初心★住谷悦治 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_21.html]

◆◆ 箕輪初心★柏木義円 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201302/article_22.html




◆◆ 内村鑑三の生涯 ◆◆
万延2年(1861)2月13日=3月23日〜昭和5年(1930)3月28日
キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく無教会主義を唱えた。
 (★ウキペディア)
画像



【1】東京生まれの高崎育ち時代
・万延2年(1861) 高崎藩士:内村宜之とヤソの6男1女の長男
として江戸小石川の武士長屋に生まれた。
父:内村宜之が「鑑三」と名付けた。
「 三度自己を鑑みる。」という意味であった。

・慶応2年(1866) 5歳
内村宜之は意見の不一致で高崎に謹慎を命じられた。
   →家族で高崎に移った。
   幼少期より、父から儒学を学んだ。

・明治4年(1871) 廃藩置県
高崎藩知事:大河内輝声は罷免。
父:内村宜之も県小参事を罷免。→隠居。
高崎で白井という人より、手習いを受けた。
  高崎藩主:大河内輝声の創立した高崎藩英学校に入学。
  ・・・小泉より英語を習った。



【2】東京での学生時代
・明治6年(1873) 単身で上京。有馬学校英語科に入学。
  (※同級生の日本銀行総裁:三島弥太郎)
   有馬学校で1年学んだ。

・明治7年(1874) 東京外国語学校の下等第四級に編入。
    (※同級生に、末松謙澄、天野為之、佐藤昌介)
    (※加藤高明は一級に在籍)
   教師のM・M・スコットより、グループメソッドという
   新しい英語教育を受けた。
  
  ・一年病気で休学=杉田玄端から治療を受けた。
   一年遅れた。
   内村鑑三・新渡戸稲造・宮部金吾と同級になる。
  ※三人は終生、親交を結ぶ。
  初めて英文講読で旧約聖書の聖書物語に触れた。
  
・明治9年(1876) 札幌農学校が創立。
  北海道開拓の技術者を急造目的で創設。
 ★北海道開拓使の役人の演説と官費生の特典に心を動かされた。
  経済上の理由で入学を決意した。
  
 ・芝で1ヶ月の合宿。
  東京大学予備門時代の同級生:新渡戸稲造、宮部金吾、
  岩崎行親らと「立行社」を結成した。


【3】札幌農学校時代=内村鑑三&新渡戸稲造&宮部金吾
・明治10年(1877)4月
東京英語学校は東京大学予備門と改称。
  東京英語学校を終了→東京大学への進学が認められた。
 札幌へ旅立を決定。
  内村鑑三は第3学年時、札幌農学校に編入学。
 札幌農学校の教頭:ウィリアム・スミス・クラーク&
 お雇い外国人強い感化された。
 第一期生の多くはキリスト教に改宗していた。
 内村鑑三は、キリスト教への改宗を迫る上級生に反抗して
 いた。しかし内村鑑三は新渡戸稲造と宮部金吾が署名した
 ことがきっかけで、立行社:岩崎行親と同じ日に
 「イエスを信ずる者の契約」文書に署名した。
 内村鑑三は「ヨナタン」というクリスチャンネームにした。
 
 
・明治11年(1878)6月2日
米国のメソジストキリスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受けた。
洗礼を受けたキリスト者達は、日曜日には「小さな教会」を開き、
 真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。
 そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを
目標とするようになった。=札幌バンド。

・明治14年(1881)
 7月 
 内村と新渡戸と宮部の3人は札幌の公園で将来を二つのJのために
 捧げることを誓い合った。
★内村鑑三は生涯、「二つのJ」を愛したそうである。
 一つは「ジーザス」、一つは「ジャパン」である。
卒業後、
@宮部金吾・・・札幌農学校で教鞭を取るために東京大学へ。
A新渡戸稲造・・札幌農学校で教鞭。
B内村鑑三・・・北海道開拓使民事局勧業課水産を担当へ。
内村鑑三は勤務の傍ら、札幌に教会を立てた。
  札幌に教会を独立させることに奔走した。

  10月 札幌YMCAの副会長になった。

・明治15年(1882) 札幌市南2条西6丁目に家屋を購入。  
  開拓使が廃止。
  →札幌県御用係。漁業調査と水産学の研究を行った。
 6月  伝道者になるために札幌県に辞職願を提出。受理。
  津田仙(津田梅子の父)学農社農学校の教師就任。
 
 12月初旬 農商務省の水産課に勤務。
    日本産魚類目録の作成に従事。
 12月 札幌基督教会(札幌独立キリスト教会)を創立。
第3回全国基督信徒大親睦会に参列。
   札幌教会代表として演説を行った。

・明治16年(1883) 夏 安中教会を訪問。
 ★海老名弾正と会った。
   
  浅田タケと両親の反対を押し切って結婚へと・・

・明治17年(1884)13月28日 結婚。
  半年後には破局して離婚。
  原因はタケの異性関係の疑惑とも言われている?



【4】アメリカ留学時代
 両親と友人の勧めでアメリカ留学を決意した。
・明治17年(1884) 私費でアメリカに渡った。
11月24日にサンフランシスコに到着。
※拝金主義、人種差別の国=アメリカに幻滅した。
  内村鑑三は何の宛・行く宛も持っていなかった。
 ・メリマン・ハリス夫人からミデヤの叔父の家を紹介された。
 ・ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護
  施設を尋ねた時、院長のI.N.カーリンと出会った。
  →知的障害児養護学校で看護人として勤務。

・明治18年(1885) 6月 カーリンはワシントンDCの全米慈善
矯正会議に出席する際に内村鑑三を同行した。
ワシントンでクリーヴランド大統領に面会した。
ワシントン滞在中にD・C・ベルと出会った。

 ※札幌農学校の新渡戸稲造・佐伯理一郎とともに
  フィラデルフィア近郊の親日的クエーカー教徒の
  ウィスター・モリスと親交を持つようになった。

 ※日本にいた浅田タケは4月15日、女児ノブを出産。
  浅田タケは手紙で復縁を迫った。
  新島襄は浅田タケに洗礼を授けた。
  新島襄も内村鑑三に復縁を説得したが、
  内村鑑三はきっぱりと断った。〜〜〜〜。



【5】アマースト大学時代
 @内村本人・・ペンシルベニア大学で医学と生物学を学び
   医者になる道を考えていた。
 Aカーリン夫人・・ユニテリアンでハーヴァードでは?。
 B米国滞在中の新島襄・・・キリスト教の牧師の道はどう?
   
 9月 新島襄の母校:マサチューセッツ州グロースター
  のアマースト大学に選科生として3年に編入。
  新島の恩師J・H・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。
  
 アマースト大学の総長:J.H.シーリーに感化。
  
・明治19年(1886)7月31日
旧高崎藩士:横浜恕の娘:横浜かず(横浜加寿子)と結婚。

・明治20年(1887) アマースト大学を卒業。
Bachelor of Science(理学士)の学位を受ける。
総長:シーリーの勧めで、
コネチカット州のハートフォード神学校に入学。
内村鑑三は神学教育に失望してしまった。

・明治21年(1888)
1月 退学。
5月 神学の学位は得ないまま、帰国。



【6】新潟の教員時代
・明治21年(1888)6月6日
新潟県の北越学館への教頭としての招聘を断ったが、
 帰国後、新島襄の仲介で北越学館への契約が成立。
 館主:加藤勝弥と約定書を交わした。
 仮教頭で赴任し、北越学館で1年間勤務した。
 北越学館ではエレミヤ書を講義し、土曜日には講演会を開き、
 ルターについて講義した。
 就任一ヶ月後
  新教頭:内村鑑三vs  校長:成瀬仁蔵&宣教師+学生
 新島襄は横井時雄を派遣するが、効果はなかった。
 内村鑑三は4ヶ月で辞職。

 内村鑑三は東京に戻った。
 植村正久の一番町教会(現日本基督教団富士見町教会)で説教。
 東洋英和学校、明治女学校、水産伝習所などで教師をした。
 ★内村鑑三は東洋英和学校で山路愛山に「万国史」の教えた。
 山路愛山は徳富蘇峰の「民友社」に入り、國民新聞記者と
  なった。歴史家でもある。「新井白石」など書いた。





【7】「内村鑑三不敬事件」or「第一高等中学校不敬事件」時代
・明治23年 (1890) 植村正久の一番町教会の長老:木村駿吉の
    推薦により、第一高等中学校の嘱託教員となった。

・明治24年(1891)1月9日 教育勅語奉読式
教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆
の署名に対して、「奉拝」することが求められた。
内村は校長・教頭・舎監という3番目であったが。
  「奉拝」は最敬礼をせずに降壇した
 このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化した。
 敬礼を行なわなかったのではなく、最敬礼をしなかったのだ。
 不敬事件とされた。
事態の悪化に驚いた木下校長は、
「敬礼は信仰とは別の問題である。」
 と述べて、改めて内村に敬礼を依頼した。
内村はそれに同意したが、悪性の流感にかかっていたので、
代わりに木下駿吉が行った。

しかし、マスコミが大きく取り上げて
「内村鑑三の不敬事件」
として全国に喧伝された。
事件はキリスト教と国体の問題へ進展した。
内村は流感で病床にあり意識不明だった。
1月31日 本人の名前で辞職願いが出されていた。、
2月3日  内村の名前で弁明書が数紙に掲載された。
     依願解嘱された。

妻かずは、夫に代わって抗議者を引き受けたが、
流感で倒れてしまった。
妻かずは4月19日に死去した。

結末・・
 内村鑑三は札幌に行き、新渡戸稲造と宮部金吾の元で1ヶ月
 過ごした。
 東京で本郷教会:横井時雄が内村鑑三を支えた。
 教会でエレミヤ書の講義をさせた。
 『基督教新聞』に執筆の場を与えた。


・明治25年(1892)1月 横井時雄の世話で、日本組合基督教会
の京橋講義所の説教者になった。
※内村鑑三は伝道者の道を本格的に歩み始めざるを得なかった。

  夏・・千葉県君津郡竹岡村に滞在した。
   一ヶ月間熱心に伝道して、
  8月25日 天羽キリスト教会(竹岡美以教会)が設立。
 
  秋・・・泰西学館
  
【8】熊本英学校時代・・・内村鑑三と妻:内村静子
・明治26年(1893)7月 須磨での第五回夏期学校に講師として
    出席した。横井時雄と講演し、内村は日本教会論を語った。こ
    (※2月に発行された『基督信徒の慰』)
    高等英学校(現:桃山学院高等学校)
      熊本英学校  
      名古屋英和学校(現:名古屋高等学校)
      と教壇に立った。

   冬・・クリスマスに京都旧岡崎藩士の判事:岡田透の娘
    :静子と結婚した。
  
・明治26年(1893) 帝国大学文科大学教授の井上哲次郎によって
「不敬事件」の論争が再燃。
井上の所論をめぐりキリスト教会・仏教界・思想界・学会・
  教育界・ジャーナリズム界で大論争が巻き起こった。
  内鑑三村は井上の「不敬事件」に事実誤認を指摘して反論。
  世論は井上に味方し、敗北。

【8】流浪・窮乏の時代
  内村鑑三は多くの著作・論説を発表した。
  『基督信徒の慰』 
  『求安録』
 ※『余は如何にして基督信徒となりし乎』
 ( How I Became a Christian)
内村鑑三は、文明に対する嫌悪感を持った。特にアメリカ。
「・・・単純な道徳を無視して・・・合法化された冨櫛。
 闘鶏・競馬・蹴球試合の場面で見られる賭博的傾向・・・
・・・非人間的な拳闘、・・・リンチ・・・、ラム酒取引
政治における扇動運動、宗教における教派的嫉妬、
資本家の圧倒と労働者の傲慢、百万長者の愚行、
・・妻に対する偽善的愛情。。などなど。・・
これが我々宣教師によって、基督教の他宗教に対する
優越性の証拠として、受け取るように教えられた文明
であるか。」
※前田氏・・・アーマスト大学のシーリー教授の感化。
「アメリカにたいする5箇条の態度」
@アメリカに行かないこと
Aアメリカに製品を買わないこと・・
BCD

 ★まるで、現在の日中関係みたいである。
 でも、内村鑑三の批判の声も多かった。



【9】京都時代
  便利堂の中村弥左衛門と弥二郎が経済的に内村を支えた。
・明治27年(1894)箱根のキリスト教青年会第六回夏期学校
「後世への最大遺物」・・・便利堂1897年に刊行。
   森敦はこの本を非常に愛読していたという。
京都時代を助けたのは徳富蘇峰だった。
そして、金銭面でたすけたのが、湯浅治郎であった。
 徳富蘇峰・湯浅治郎らのおかげで、
 『国民之友』に文を発表し、有名になっていった。

 『国民之友』の編集の国木田独歩も内村鑑三に感銘を受けた
 一人である。


【10】新聞記者時代
・明治30年(1897) 黒岩涙香が名古屋にいる内村鑑三を訪ねた。
  朝報社への入社を懇請した。
  内村鑑三は朝報社に入社した。
  同社発行の新聞『萬朝報』英文欄主筆となった。
  一高時代の教え子:山県五十雄らと共に、
  通算200数十篇の文章を書いた。
  
 3月16日  英文欄に足尾銅山の鉱毒問題を取り上げた。

・明治31年(1898)5月22日
黒岩の熱心な慰留にもかかわらず、朝報社を退社した。
内村鑑三・徳富蘇峰・など。
  
 ・6月10日より、山県悌三郎の『東京独立雑誌』を創刊。
   主筆ジャーナリストとして独立した。
  坂井義三郎、佐藤迷羊、西川光次郎、佐伯好郎、中村諦梁らが
   編集者になり、
  大島正健、松村介石、留岡幸助、元田作之進、田岡嶺雲、
  山県五十雄、駒井権之助らが寄稿した。
  内村の論評に対して、高山樗牛が雑誌『太陽』で公開質問状を
  発表した。

・明治32年(1899) 6月 女子独立学校の校長に就任。
 
・明治33年(1900) 7月5日 内村の問題により廃刊。同社は解散。
  旧社員は『東京評論』を創刊。深刻な敵対関係になった。


【11】『聖書之研究』の時代
・明治35年(1902)
『東京独立雑誌』の廃刊.
第一回夏期講談会・・・独立女子学校
  内村鑑三・留岡幸助・松村介石・大島正健らが講師になった。
  小山内薫・青山士・萩原碌山・井口喜源治・西沢有志智
  ・倉橋惣三・武藤長蔵・森本慶三・小林洋吉らが参加した。
 →長野県上田・小諸に独立倶楽部が結成。各地で伝道を始めた。
長野県軽井沢にある「石の教会:内村鑑三記念堂」
画像

画像

画像

 (★上毛新聞より)
  石碑に書かれているのは、
「われは日本の為、日本は世界の為、
  世界はキリストの為、万物は神の為に」という言葉である。
北佐久郡軽井沢町長倉(星野温泉近く)
 中軽井沢駅から草津方面へ4〜5分。
 博物館開館期間:4月中旬〜11月下旬。



 8月 上州を訪れた。
 9月 万朝報の客員として復帰。日本語の文章を寄稿した。
 10月 日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊。
    (聖書之研究は内村の死まで続けられた。)
     聖書研究所を発足。
    自宅で聖書の講義を始めた。
  志賀直哉や小山内薫らが聴講に訪れた
  25人定員の角筈聖書研究会になった。
  12名は角筈12人組と呼ばれた。

・明治34年(1901) 3月 『聖書之研究』の月刊『無教会』を発刊。


【12】足尾銅山鉱毒問題に首を突っ込んだ時代
画像

・明治34年(1901)
4月21日 栃木県足利の友愛義団に招かれて、
巌本善治、木下尚江と共に講演した。
4月22日 木下尚江と共に足尾を訪れた。
足尾の鉱毒の被害を激しさを知って驚いた。
  内村鑑三はは『万朝報』に記事を書いた。
  『鉱毒地遊記』である。・・・鉱毒問題の原因を経営者:古河
  市兵衛の起こした人災であると言った。

  5月21日 東京神田の東京キリスト教青年会館
   津田仙を座長にして足尾鉱毒問題の『同情者』の会が開かれた。
   田中正造が説明をした。
   →結果、鉱毒調査有志会が結成され内村と巌本善治が調査員   
   に選ばれた。
  6月21日 有志会の調査が、内村を主査、田中正造が案内役
    として始まった。
  7月20日 内村鑑三は黒岩涙香・堺利彦・幸徳秋水・天城安政
    円城寺清・斯波貞吉・山県五十雄らが発起人なり、
    社会改良を目的とする理想団を結成した。
夏  第二回夏期講談会
    巌本善治が講師。小山内薫・志賀直哉・倉橋惣三  
   ・浅野猶三郎・斉藤宗次郎&足尾鉱毒被害地の田中正造の
    片腕の永島与八らが出席した。
11月1日 東京キリスト教青年会館で足尾鉱毒演説会
    内村鑑三・巌本善治・安倍磯雄・木下尚江・島田三郎
   と共に出席した。
   内村は、鉱毒問題が色慾問題であることを説いた。
  
  11月 調査会の弟一回報告書提出。
   内村鑑三、巌本善治、田中弘之、高木政勝の連名で出された。
 
  11月29日 佐野駅→被害地を再び訪問する。
12月10日 田中正造の明治天皇直訴事件

12月12日 東京キリスト教青年会館
   巌本、黒岩、幸徳伝次郎(秋水)、佐治実然、三宅雄二郎らと
   足尾鉱毒演説会を開いた。
   内村は「古河市兵衛にポーコを加えよ。」と叫んだ。
  12月27日 田村直臣を委員長、安倍磯雄を監督委員として、
   約800人の学生によって鉱毒被害視察旅行が行われた。
   内村鑑三、木下尚江らも同行した。

・明治34年(1902)
3月10日 理想団晩餐会・・・社会の改良法で確執。
   内村鑑三&安倍磯雄との違いが出た。

  4月2日 鉱毒問題解決演説会
運動への参加が消極的になった。
  聖書研究へ沈潜していくことになる。
  

【13】非戦論時代
・明治37年(1905)
  1月 日露戦争中の内村の父宜之と息子祐之
内村鑑三は日清戦争は支持していた。
  しかし、日清戦争が内外にもたらした影響を痛感して
 平和主義に傾いていった。キリスト者の立場から非戦論を
 主張するようになった。
 
 6月10日 『戦争廃止論』を萬朝報に発表した。
       萬朝報も当初は非戦論が社論であった。
 6月24日 東京帝国大学:戸水寛人ら7人の教授が開戦を唱える
      建議書を提出、公表された。
 
・明治36年(1903)
 10月8日 内村鑑三・幸徳秋水・堺枯川は萬朝報を離れた。
   萬朝報退社後も、『聖書之研究』を通じて、非戦論で抵抗。


・明治37年(1904) 2月 日露開戦。
戦争中は、キリスト教の集団も戦争推奨派であった。
   日本メソジスト教会の本多庸一
日本組合教会の小崎弘道らキリスト教の多数派
   ・・主戦論に傾いて積極的に戦争に協力した。
   非戦論は内村や柏木義円などのきわめて少数であった。
   内村鑑三はキリスト者の間でも孤立した。

・明治37年(1904) クリスマス
内村鑑三は「平和主義者の日であって、主戦論者はこの日を守る
   資格を有せず。」と述べた。
 ※中里介山は『新希望』(『聖書之研究』の改題)に
   「予が懺悔」という文を寄せている。

 11月11月 母が死去。  
   弟:内村達三郎が、「母親を死に至らしめたのは兄である。」
  と責め始めた。母親の葬儀に内村鑑三に妨害と侮辱を加えた。
  北沢楽天の風刺画『東京パック』ので取り上げられた。
  肉親→キリスト者の交流の考えにいたる。
  角筈聖書研究会が再開。「聖書之研究」の読者組織:教友会が結成
  東京府・・・角筈に最初の教友会が設立。
  新潟県・・・柏崎、大鹿、三条
  長野県・・・上田、小諸、東穂高
  千葉県・・・鳴浜
  栃木県・・・宇都宮
  岩手県・・・花巻で結成された。

・明治39年(1906) 夏 新潟県柏崎で夏期懇談会

・明治40年(1907)
  2月 『基督教と社会主義』
   「角筈パムフレット」を刊行。
   社会主義者とキリスト者の差を明確にした。
※内村は社会主義者に距離を置くようになった。
  夏 千葉県鳴浜で懇談会を開催。
  11月 内村一家は角筈から淀橋町の柏木に移った。
実業家:今井樟太郎の未亡人:ノブの寄付。    
   今井館=無教会主義キリスト教の本拠になった。
・明治40年(1908) 社会主義者:福田英子の聖書研究会への
   出席を拒否。


【14】東京柏木時代
・明治40年(1908)6月 『聖書之研究』第百号の祝いを
今井館の開会式を行った。

・明治41年(1909) 秋 第一高等学校校長:新渡戸稲造の推薦状
で、学生が内村鑑三の弟子入りした。
内村によって「柏会」と命名された。

・明治42年(1910) 10月29日 第一回明の会合を行った。
岩永祐吉、金井清、川西実三、黒崎幸吉、沢田廉三、
 膳桂之助(★日銀副総裁・・群馬県旧粕川村)、
高木八尺、田中耕太郎、田島道治、塚本虎二、鶴見祐輔、
前田多聞、三谷隆正、森戸辰男、藤井武らがメンバーになった。

・明治43年(1910) 秋 『聖書之研究』
 「読者であれば、誰でも聖書研究会に出席してもいい。」
→矢内原忠雄と坂田祐らが出席した。

・明治44年(1911) 娘:ルツ子が原因不明の病になった。
東洋宣教会の教師:笹尾鉄三郎に信仰の導きを依頼した。

『デンマルク国の話』が学生たちに感化を与えた。
 
 娘:内村ルツ子の病死とアメリカ在住のアメリカ人の友人:
   ベルの手紙での感化→再臨信仰に発展。

・明治45年(1912) 1月 内村ルツ子、18歳で昇天。

・大正元年(1912)
  「余は本のため、
   日本は世界のため、
   世界は基督のための、
   基督は神のための也。」 札幌にて
画像


・大正5年(1916) 10月 柏会を解散。
   藤井武、黒岩幸吉、塚本虎二、江原万里、金沢常雄、
   矢内原忠雄、三谷隆正、三谷隆信、前田多門らが、
   純信仰的集団のエマオ会を創設した。


【15】再臨運動時代
・大正6年(1917) 宗教改革400年記念講演会
   無教会主義→大々的な集会を開催する方針になった。

・大正8年(1918) 再臨運動を開始した。
@日本ホーリネス教会の中田重治に面会。
  主要教理の四重の福音の一つとして再臨を強調していた。
A組合教会の巡回伝道者:木村清松と再臨運動を開始。
 Aアメリカ留学から帰国した平出慶一、武本喜代蔵と活動。
 B自由メソジスト:河辺貞吉、聖公会の藤本寿作らなど
  再臨運動を展開。

 運動は、東京や関西→北海道から岡山にまで及んだ。
  
・大正8年(1919) 6月 海老名弾正らを中心に基督再臨反対演説会
が開かれるなど、キリスト教会内部での反対運動も大きかった。

キリスト教界に賛否両論の議論を生んだ運動は、明確な決着を見ずに、
ほぼ2年で終息した。
 
 しかし、内村鑑三は生涯復活信仰を捨てなかった。

【16】晩年・・アメリカ批判の時代
・大正11年(1922) 10月 世界伝道協賛会を創設。
   世界の伝道事業に貢献する組織を作った・
   中国、台湾、南洋諸島の伝道を援助。送金。

・大正12年(1923)7月7日 元弟子:有島武郎が人妻の
   波多野秋子と心中した。
   内村鑑三は『萬朝報』「背教者としての有島武郎氏」
    という文章を載せた。
   死の原因を「コスミック・ソロー(宇宙の苦悶)」であると
   述べ、激しい怒りを表明した。
基督教では自殺は禁止であった。

  9月1日・・・関東大震災
   内村鑑三は長野県沓掛に滞在中であった
  9月2日 帰京した。内村の家族には被害がなかった。
   しかし、「霊的戦闘のアリーナ」衛生会講堂を失った。

・大正13年(1924) 6月15日 内村鑑三の聖書講演会
  「アメリカ国で可決された=日本人移民の帰化
  ・入国禁止排日法案に反対・・・
サンフランシスコなどに5万人〜6万の移民がいた。
  ・絶交状態にあった徳富蘇峰と和解。
『聖書之研究』や『国民新聞』に何度も排日反対の
文章を掲載した。
「アメリカにあるのは金だ。・・・哲学などはない。」
  ・植村正久や小崎弘道ら教会指導者と「対米問題」に
   ついて議論を重ねた。

「日本の天職」・・日本は人類の進歩に何を貢献すべきか?
・・・本居宣長・平田篤胤等は・・信仰的愛好者の秀でた
者である。・・・
平賀源内の一首「さし昇る 朝日の本の光より
 高麗唐土(こまもろこし)も 春をしるさん 」
これを退けてはならん。
・・・日本に昇る光をもって、世界の光をてらさんと欲す。
・・・預言者イザヤも・・不可なき物である。」
★→内村鑑三は西洋化した弱肉強食の日本のアジア進出を
 嫌ったのである。


・大正15年(1926) 内村聖書研究会から
アルベルト・シュヴァイツァーに送金された。

・昭和元年(1927) アフリカのシュヴァイツァー後援会を設立。
事業を積極的に支援した。

・昭和2年(1928) 6月2日 受洗50周年記念
新渡戸稲造、広井勇、一期生の伊藤一隆、大島正健らと
青山墓地のメリマン・ハリスの墓参りをした。
7月~9月 北海道帝国大学の教授として札幌に赴任。
  長男:内村祐之一家と札幌伝道を行った。
  札幌独立キリスト教会で説教。教会教務顧問に就任。

 
【17】体調不良→昇天時代
※内村は体調を崩し始めた。

・昭和3年(1929) 無教会主義を主張。
  塚本虎二らと対立。
 〜〜〜内村鑑三は病状を悪化させた。
  大塚久雄に師事した。
大恚v雄=大塚史学
 法政大学→東京大学→国際基督教大学教授。 
  商業主導産業革命論&唯物史観を批判し、
  マルクスとマックスウェーバーを柱とした。
私も昔、学生時代に本を読んだ。本も持っている。懐かしい。


・昭和4年(1930) 1月20日 柏木の聖書講堂
  「パウロの武士道」について述べた。最後の講演であった。

 3月26日 内村鑑三の古希感謝祝賀会
    本人は出席できず、長男:内村祐之が挨拶した。
 3月28日 「非常に調和がとれて居るがこれでよいのか」
    との言葉を最後に昏睡状態に陥った。
   午前8時51分に家族に見守られて死去。

 4月6日 内村の遺言通り、内村聖書研究会は解散式を行った。
   「聖書之研究」は第357号で廃刊。


★参考文献・Hp
@「信徒 内村鑑三」河出書房新社:前田秀樹著
A「余は如何にして基督信徒となりし乎」岩波文庫:鈴木 俊郎著
B「内村鑑三」岩波新書:鈴木範久著
CウキペディアHp「内村鑑三」をベースに作成。
 などなど・・・
画像




★今日は、これから「陶芸師匠:青木昇黄綬褒章祝賀会」に行く。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
ナイス

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
箕輪初心★『新島襄&新島八重の上州』企画展in群馬
★NHKの大河ドラマ「八重の桜」の波に乗って、群馬県内では、 安中市を中心に「新島襄&新島八重の上州」に関する展示&説 明会が多くなってきた。結構、バス旅行の県外の客も多くなった。 @安中の新島襄の家、A安中の郡代官所、B有田屋=湯浅 治郎宅、C安中ふるさと館・・常設展・富原文庫:会津城下の 屏風絵「八重7歳頃」、D土屋文明記念文学館の企画展: 「新島襄と八重の上州」などが分かりやすいだろう。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/05/21 05:34
箕輪初心★旧高崎の偉人伝:近代編
★旧高崎地区は「中曽根康弘」など大物政治家が多い。 ★吉永哲朗著「高崎偉人伝」の近代には、@宮部襄、A矢島八郎、 @内村鑑三、C原口鶴子、D茂木惣兵衛、E深井英五、 F桃中軒雲右衞門、G井上保三郎、H田村英太郎、I村上成之、 J羽鳥千尋、K村上鬼城、L橘外男、M吉野秀男、N八木保太郎、 O花柳徳兵衛、P&#34847;山政道、Q萩原恭平、R松本亨、S橋本一明、 21原口統三、22,金鶴泳、23、池田夏苗が掲載されている。 +αで個人的には、24山田昌吉、25尾崎行雄、26井上... ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2013/11/04 10:49

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心★新島襄周辺『内村鑑三の生涯『&「高崎の内村鑑三の碑」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる