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zoom RSS 箕輪初心★幕末偉人【西郷頼母】=西郷隆盛と同じ先祖。

<<   作成日時 : 2013/01/06 08:06   >>

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会津の西郷頼母&薩摩の西郷隆盛は先祖が同じである。
九州の菊地一族→三河の西郷一族&薩摩の西郷一族だ。
1月2日、テレビ東京の新春ワイド時代劇「白虎隊〜敗れ
ざる者たち」の7時間ドラマがあった。NHK大河ドラマ
「八重の桜」を意識しての番組であろうと思っていた。し
かし、会津藩の悲劇を西郷頼母&家族の視点から映画化し
たドラマであった。ドラマは文久2年(1862)頃から進めら
れた。ワイド時代劇「白虎隊」の主役の北大路欣也の白い
髭顔。文久2年(1862) 32歳を演じていのである。NHK大
河ドラマの準主役の西田敏之65歳。爺対決だ。今度の爺も
きっと格好いいだろう。

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(★会津若松城=鶴ヶ城)
◆◆ 箕輪初心●【会津若松城】 ◆◆
 

◆◆ 「会津武家屋敷」←西郷頼母の屋敷の復元 ◆◆ 
会津藩の家老:西郷頼母は家禄1700石である。
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◆◆ テレビ東京の新春ワイド時代劇
   「白虎隊〜敗れざる者たち」 ◆◆
第一部「京都守護職 ならぬものはならぬ! 
    故郷に迫る激動の嵐」
第二部 「新選組 京都動乱! 戊辰の戦」
第三部 「鶴ヶ城燃ゆ…白虎隊、妻よ、子よ永遠に」
http://7tv7dorama.blog.fc2.com/blog-entry-3408.html



◆◆ 西郷頼母の先祖の2説 ◆◆
@菊地氏族→肥前西郷氏嫡流が九州から三河守護代として本拠地を
 移したのが始まりとされている。室町時代には守護代でなくなっ
 た後も三河の有力な国人となった。戦国時代に三河国守護代:
 西郷稠頼・頼嗣により三河国岡崎城築城。・・・
 西三河の松平清康(徳川家康祖父)が台頭して、岡崎城を乗っ
 取った。清康の横死し松平氏が弱体化。今川氏に再属する。
 永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、
 松平元康(徳川家康)が岡崎城に入って松平氏を再興した。
 西郷正勝は次男:清員を人質に出して家康に従った。しかし
 永禄5年(1562)に、朝比奈氏の侵攻を受けて、正勝と嫡男
 :元正が戦死した。このため西郷氏は元正の子:義勝が継
 ぎ、叔父の清員が後見した。
・天正3年、武田信玄家臣:秋山信友が三河に侵攻してきた際、
 西郷義勝が戦死した。義勝の子はまだ生後まもなかったため、
 徳川家康は清員の嫡男:家員に西郷氏の宗家を継がせた。
 ※西郷義勝の妻(西郷正勝の外孫)は清員の養女として、徳川
 家康の側室:西郷局となり、徳川秀忠と松平忠吉を産んだ。

 西郷清員の弟は徳川御三家や従兄弟は井伊直政の娘婿で家老、
 会津藩に保科正之の家老として移封し、以後松平家に仕えて
 いる。西郷家は 傍流の1つとして見られており、初代の西郷
 頼母助近房以来200余年、会津藩松平家の代々筆頭家老の家
 柄である。幕末には会津藩(現福島県会津若松市)家老1700
 石の西郷頼母を輩出した。西郷頼母近悳(頼母と表記)で
 9代目となっていた。
 (★ウキペディアなどを参考に再編集)

A西郷家は藩祖:保科正之の分家説もある。
 家紋は鷹の羽+保科家の九曜紋である。


◆◆ 西郷頼母近悳(ちかのり)→保科頼母の生涯 ◆◆
文政13年(1830)閏3月24日(5月16日) 〜
明治36年(1903)4月28日

・天保元年(1830)
3月 会津藩江戸詰家老西郷近思長男として誕生。
        母は会津藩士:小林氏の次女:律子。

子供の頃〜
 ・溝口派一刀流
 ・甲州流軍学
 ・大東流合気柔術(継承者)

★群馬の戸田書店の調べでは
 「3つの著書がある。」

・安政元年(1854) 22歳
   番頭になる

・万延元年(1860) 家督と家老職を継いだ。
藩主:松平容保に仕えた
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・文久2年(1862) 32歳
家老→留守家老(=国家老)筆頭家老となった。
     
  会津に赴任。
西郷家は本丸のすぐ北にあった。
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  萱野家や山本家・横山主税家は西にあった。

新春ワイド時代劇「白虎隊〜敗れざる者たち」
 「西郷頼母は、妻・千重子や自身の親兄弟・子供たちと
 質素ながらも仲睦まじく暮らしていた。」 
 「子どもや従兄弟を引き連れて、稲刈り体験を
 させた。家老職の一方で藩校「日新館」の指導者と
 して少年たちの鍛錬に尽力していた。」
 
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7月27日 幕府は京都守護職設置を決定。
8月7 日 越前藩:松平春嶽が会津藩:松平容保に京都守護職
     固辞に対して、就任を勧告する書簡を送る。
     松平春嶽が会津藩和田倉屋敷を訪ねて、深夜まで
     病床の松平容保の守護職就任を説得。

松平容保は一度は断った。
     松平容保は国許と相談するため、急使派遣。
新春ワイド時代劇「白虎隊〜敗れざる者たち」
「萱野権兵衛(小林念持)の名誉ではないか」という
意見と「西郷頼母(北大路欣也)の断るべき」という
意見が対立しているが、何かほのぼのしている。

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8月8日 松平春嶽は容保を訪問。
     家老:横山常徳・用人:堀七太夫も同席。

8月19〜20日 松平容保に京都守護職の内命が下った時には、
     国許から西郷頼母、田中土佐とともに早駕籠で
     江戸に駆けつけた。

   ●新春ワイド時代劇「白虎隊〜敗れざる者たち」
  「『引き受けない』ことを強調する西郷頼母を適当な
   ところで、止める役となっていた。」


    京都守護職就任を要請された容保に対し、
     @「政局に巻き込まれること」
     A「出費の懸念」=
      「やませ続きの農民の負担」&「京都滞在費」
     国力に鑑み、強く反対したが聞き入れられず
     辞退を進言した。
     
     松平容保の怒りを買った。
     
     松平容保の考え&藩論は拝命に決まる。

・閏8月1日松平容保は将軍から新しい役職:京都守護職に任ぜら
     れた。
松平容保は1000人の家臣とともに京へ登った。

    京都守護職:松平容保は新選組を配下に置いた。
    攘夷派を厳しく取り締まったが、それは薩摩や長州の
    激しい憎しみをかうことを意味していた。
西郷頼母はそのことを心配していた。


・文久3年(1863) 33歳
  4月 西郷頼母は上洛した。
藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢
    を覆さず、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに
    帰国を説いている。

 10月 松平容保に守護職辞職を求めるが容れられず、
    家老職の罷免。
   
    i家老を辞した説。
    家老職まで罷免解任された説がある。
    この解任理由は、無断上京を咎められたからともいわれて
   いるが定かではない。

   
   ・その後、他の家老たちの間で西郷頼母の罪を赦しては
   どうかと話し合われた。

・元治元年〜慶応3(1867)
会津の長浜「楢雲亭」で5年間隠居生活?
   幽居生活を送った。




・元治元年(1864)
2月 山本覚馬が上洛。
蘭学・英学の学問所設立
6月 寺田屋事件
新撰組:近藤勇らが長州藩を7人を殺害。

7月 ※蛤御門の変
 長州藩1600人が御所を攻撃。

・慶応2年(1866) 山本覚馬が新式スペンサー銃を長崎で購入。
  妹:山本八重に、七連発スペンサー銃をプレゼントした。

・慶応4年・明治元年(1868) 戊辰戦争の勃発
 1月 鳥羽伏見の戦
旧幕軍がで敗走しした。  
   山本覚馬が薩摩藩に捕らえられた。
    →二本松の薩摩藩邸(=後の同志社大学)に幽閉。
   
  ※「宦官」七箇条を獄中で書いた。
   山本覚馬は後に、これが認められ、京都政治顧問になった。
   横井小楠の影響とも言われている。坂本龍馬の「船中八策」
   にも影響を及ぼしたという説もある。
   山本覚馬の次女:久栄は横井小楠の長男:横井時雄である。


  松平容保は大坂城から、「錦の御旗」の前に船で江戸へ・・
  新撰組副長:土方歳三も頑張ったのだが・・・

   西郷頼母は江戸藩邸の後始末の任を終えたのち
   会津へ帰還する。

 
 2月 松平容保が会津に帰国。
 4月 西郷頼母は家老職への復帰を許された。
    しかし、松平容保に恭順謝罪を説き、登城さしとめ・蟄居処分
    を受けた。

  
小栗上野介の道子夫人は、会津の横山主税を頼ろうと道を急い
だ。横山は、小栗又一からフランス語を習い、母や道子夫人・よき
子などとも顔見知りであった。旧倉渕村権田→東吾妻町(旧坂上村)
→旧六合(くに)村→野反・地蔵峠→秋山郷→ 十日町→小千谷→
長岡→燕→中之島→新潟&法音寺墓参を済ませた。
→阿賀野川沿い・・・→水原→津川→会津若松へ・
 7月29日(太陽暦9月15日) 長岡城は再び陥落。
  →河井継之助らは会津へ落ちのびた。
△戊辰戦争を通じて最も熾烈な北越戦争は西軍の勝利になった。
8月16日(=10月1日)河井継之助は破傷風により死去。42歳 

閏4月29日 小栗夫人らが会津の横山邸に到着。
 会津・・・横山主税常忠の家族に迎えられて保護された。
■横山主税は、パリ万博行きの為、小栗又一からフランス語を
 習った。母や道子夫人・よき子などとも顔見知りであった。
慶応3年のパリ万博の使節:徳川昭武に同行。
会津藩士:海老名郡治とともにフランスに遊学。
旧暦6月1日  
藩主:松平容保のアドバイスでの小栗夫人らは横山家を出て
南原の野戦病院の農家へ避難。




8月22日 新政府軍が城下に接近。
  西郷頼母は禁を犯して、息子:吉十郎とともに登城。
  再び容保に恭順を説得する。
  主戦派と対立した。

  西郷頼母を含む主な家老・若年寄は、松平容保の意に従い
  新政府への恭順に備えていた。
  新政府側からの「容保親子の斬首」要求に態度を一変した。

  西郷頼母も新政府軍が会津に接近すると白河口総督として
  出陣する。白河口総督として白河城を攻略し拠点として
  新政府軍を迎撃した
が、伊地知正治の率いる薩摩兵主幹の
  新政府軍による攻撃を受けて白河城が落城した。
  (白河口の戦い)
  
  白河城の奪還を果たせず、会津防衛に方針転換した。
  進入路に当たる峠の1つを守っていたが、他方面の母成峠を
  突破されたために、新政府軍には城下へ侵入されてしまった。
会津軍は敗れて撤退。


横山主税21歳・・家老:西郷頼母の副大将として若年寄
は白河口に進軍。(閏5月1日に戦死。)
●宿泊するはずの横山主税の戦死

首が届けられた。 
小栗道子は横山邸で会津藩主:松平容保と横山の首に面会した。
会津若松城に籠城・・・小栗夫人:道子も籠城

◆◆ 箕輪初心★小栗上野介「小栗道子の会津への逃亡 ◆◆
 河井継之助の話も出てくるよ。
http://53922401.at.webry.info/201108/article_12.html


8月23日 会津若松城に籠城開始。
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 西軍が城内進入。
西郷頼母が登城した後、屋敷に残った母や妻子など一族21
 名は、戦闘で足手惑いになるのを恐れて自刃した。 
 ※母:律子、妻:千重子、長女:細布子、次女:瀑布子、
  三女:田鶴子、次男:五郎(夭逝)、四女:常盤子、
  五女:季子など

 

 再び恭順を勧めた。
 しかし、会津藩士の多くは、新政府への徹底抗戦を主張。
 主戦派に西郷頼母の暗殺の動きがあり、それを察した
 松平容保は頼母と吉十郎を、越後口から帰陣する家老:
 萱野・上田への使者に立てて城から出すことにした。
 西郷頼母は、長男:吉十郎のみを伴い城から脱出することに
 なった。
 西郷頼母は「軽き使者の任を仰せつかり…」と述べている。

 (★栖雲記)
 越後口の萱野権兵衛の軍への連絡にかこつけた追放措置で
 ある。
 ★松平容保の思いやりともとれる。
 
●薩長連合軍との戦闘で敗戦した「白虎隊」は飯盛山を越える
  途中、何度も集団自決しようとしていたが、その度に
 「会津若松城が落城していないのに勝手に切腹して死ぬ訳
  にはいかない。」と何とか踏み止まっていた。
  しかし、藩主:松平容保は薩長連合軍の城攻めを遅らせ
  る時間稼ぎをするために城下町に火を放ったのだった。
  その火を見た「白虎隊」は城が落城したと勘違いして
  集団自決した。
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会津の白虎隊ばかりが有名であるが、二本松城の二本
  松少年隊でも同じようなことがあった。

http://53922401.at.webry.info/201208/article_3.html



  山本八重達は籠城に取りかかった。

8月24日 西郷頼母殺害を計画していた主戦派の家老:梶原
 平馬は、、西郷頼母に松平容保の御意を伝えて城外に出した。
 同時に砲兵隊組頭:大沼城之介と遊撃寄合組隊:芹沢生太
 郎を刺客をさしむけた。
 両名は暗殺の命令を聞かず、西郷を見失ったと報告した。
 刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わな
 かったという(伝)。

  西郷頼母は米沢→委仙台を経て五稜郭に行った。
  
9月14日 西軍の総攻撃
  
  
9月22日 会津若松城開城
「会津若松城はトイレの設備が整っておらず、兵士や  
  町民の大便を収集したおまるからの悪臭に耐えられず
  に開城した。」という話を2回聞いたことがある。
  ★でも、本当か嘘かは分からない。

  松平容保は投降して会津での戦闘は終結した。


・明治2年(1869) 39歳
西郷頼母は榎本武揚や土方歳三と合流。
  箱館戦線で江差まで戦った。

5月 西郷頼母は榎本に恭順を勧めたという。
   
9月五稜郭降服。
  旧幕府軍が降伏。
  西郷頼母は箱館で捕らえられ、館林藩預け置きと
  なった。しばらく館林藩に幽閉された。

・明治3年(1870) 40歳
2月 館林藩の幽閉が解かれる。
  西郷姓→保科姓に変えて「保科頼母」を名乗る。

明治5年(1872)
  伊豆で私塾を開く。

・明治8年(1875) 45歳
8月 磐城国の神社宮司となる。
    
・明治11年(1878) 48歳
政治運動にも参加した。
 6月 西南戦争に加担した疑いで職を去る。 
   西郷隆盛との関係から内通疑惑を抱かれたため
   である。明治政府に職を追われた。
   慶応年間からの知り合いらしく、手紙のやりとりは
   あった(伝)。


  ★2人の先祖は藤原系→菊地氏系→西郷氏の支流で
 ある。


・明治12年(1879) 49歳
西郷吉十郎死去。
 甥:志田四郎を養子にする。(→西郷四郎)

・明治13年(1880) 50歳
2月 松平容保が日光東照宮宮司となる。
    保科頼母も禰宜となり、松平容保を補佐。

・明治20年(1887) 57歳
4月 神官廃止。→若松に帰郷。

・明治22年(1889) 59歳
4月 岩代(福島県伊達郡)の霊山神社の宮司となる。
    県師範学校の嘱託として講義を始める。
    甥:西郷四郎に柔術を教えた。


・明治26年(1893) 63歳
従7位に叙任。

・明治32年(1909) 69歳
宮司を辞めた。若松に帰郷。

・明治36年(1903) 73歳
4月 江戸で病没。享年数え67歳。
会津若松の十軒長屋説もある
●辞世の句
「あいづねの 遠近人に 知らせてよ 
        保科近悳  今日死ぬるなり」


★西郷四郎は成人した後、上京して講道館に入門。
柔道家として大成する。講道館:加納治五郎の四天王
小説や映画で名高い姿三四郎は彼がモデルとされる。
「勝つと思うな 思えば負けよ」なんて美空ひばりの
声が聞こえてきそうである。 


西郷一族21名の受難&白虎隊の自決は戊辰戦争の悲話
として紹介されている。
 西郷頼母は会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣である
 との好意的評価もされているが、私の中では、微妙である。

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