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zoom RSS 箕輪初心★群馬【新島襄A】=山本八重の夫

<<   作成日時 : 2013/01/01 06:43   >>

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上毛カルタでは、「平和の使徒新島襄」として登場している。
群馬県人は、新島襄を群馬県人だと思っている。新島襄の実家が
群馬県安中市安中にあるからである。しかし、県外の人は群馬県人
だなんて思ってはいないのではないだろうか?新島襄は米国で苦学
し、帰国後、京都に同志社を創立し、キリスト教主義の教育に従事
した。新島八重を連れて群馬に来たのは4回あるという。NHK大河
ドラマでに新島襄がどの程度、出てくるのか楽しみである。

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◆◆ 箕輪初心★【新島襄】=2013年大河ドラマ「八重の桜」夫 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201110/article_27.html


■新島襄の旧宅(安中市安中1-7-30)・・入館無料
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◆◆ 新島襄の先祖 ◆◆
●墓・・・安中市郷原の自性寺?
でも、墓は松井田との堺にある。
 新島弁治の名前がある。

@曾祖父:中島忠七
安中市郷原生まれ。安中藩町同心・・
晩年は、寺子屋師匠。趣味は生け花&盆画

A祖父:新島弁治
安中市郷原生まれ。安中藩小頭・・
妻は新野家から・・・姓を足して「新島」

B父:新島民治(たみはる)
安中市郷原生まれ。安中藩祐筆・・
民治=====登美

@久和 A真規 B美代 C登喜 @新島襄 A雙六
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◆◆ 新島襄の年表 ◆◆
・天保14年(1843)1月14日 安中藩の江戸上屋敷で生まれた。
(現東京神田錦町・・学士会館横)
  父:新島民治&母:登美 
父は5人目でやっと念願の男児・・
「しめた。」と言ったらしい。それで、
  幼名は「七五三太(しめた)」とか、
1月14日の神棚の七五三縄から
「七五三太(しめた)」という説もある。
 
※10月天保改革に失敗・・・老中水野忠邦が失脚。
※中国の阿片戦争終わる。
  
習字・漢字・武道・外国語を習得。
@習字・・・・・父:新島民治
A漢字・・・・・父:新島民治
B絵画・・・・・父:新島民治+α
C礼儀作法・・・父:新島民治+α

・嘉永5年(1852) 9歳 
※日米和親条約
※長州の桂小五郎が京都で御所を拝む。
※12月ナポレオンがフランス皇帝に就任。

・嘉永6年(1853)10歳
D漢学・・・・安中藩の学問所:添川完平(廉斎)
■添川完平  享和3年(1803)〜安政5年(1858)
 江戸安中藩江戸屋敷の儒学者・・新島襄も学んだ。
 
※6月ペリー提督、4隻の軍艦を率いて浦賀沖に入港。 

E剣術・・・・・?
F馬術・・・・・?


・安政元年(1854)11歳 
※3月日米和親条約締結 

・安政2年(1854)12歳
※5月 パリ万国博覧会が開催。1


・安政2年(1856~)13歳
G蘭学・・・・・田島順輔(勝明お抱え蘭学者)
『ロビンソン・クルーソー』
【聖書】
  蘭学・・田辺真次郎蘭学塾(私塾)

※10月吉田松陰が松下村塾を再興。


 ★世界に目が開けた。



・安政3年(1857)14歳
板倉勝明(かつあきら)祐筆の補佐役を命じられた。
父に代わって、習字塾の先生になった。
※5月下田条約に基づき日米通商条約が調印される。

・安政4年(1857)15歳 板倉勝明48歳が死亡。
◆◆ 板倉勝明の業績 ◆◆
1)学者の登用→蘭学の奨め
@【大山融齋】=嘉永5年(1852 )張り子の地球儀作成。
A【山田三川】=近藤重蔵と千島列島の択捉島探検。
B【添川完平】=安中藩の儒者。
C【川田甕江】= 新島襄の漢学の先生。東大教授。

2)殖産の奨め→桐・杉・漆など
 (★新島襄の安中の家の裏)

3)本の執筆
@甘雨亭叢書
A安中志
B東還紀行
4)安政の遠足→日本初のマラソン



※大老井伊直弼による安政の大獄始まる。
 7月 上野安中藩の漢学の教授:添川完平(廉斎)が死去。
 9月 川田甕江を登用。
G儒学・・・川田 甕江(おうこう)
  備中松山藩の川田剛=甕江が安中藩の学問所で
    漢学を教える。
 ★備中岡山県の玉島出身の川田甕江と新島譲との出会い

 ■川田 甕江(おうこう)文政13年(1830)〜明治29年(1896)
・文政13年(1830) 備中浅口郡玉島(岡山県倉敷市)生まれ。
  父は玉島の回船問屋。
  玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだ。
  江戸で佐藤一斎らの下で学んだ。
  近江大溝藩の藩儒として100石で仕官。
・安政4年(1857) 備中松山藩の藩儒として50石で仕官。
   陽明学者:山田方谷の推薦。
  山田方谷の筆頭・・・江戸藩邸の教授:三島中洲・川田甕江
・安政5年(1858) 川田甕江は江戸の安中藩中屋敷で漢学を教授。
 川田甕江塾が安中藩邸に開設・・新島襄は川田塾に入塾。
 新島襄は漢学:川田甕江塾+蘭学:田辺真次郎塾 
・文久2年(1862)川田甕江は、備中松山藩:板倉勝静に180tの
  大きい洋式木造帆船の快風丸を購入するように進言→実現。
  アメリカ→快風丸が横浜で引き渡し→玉島(現倉敷市)
  新島襄は川田甕江の推薦で快風丸に乗り組むことになった。
 11月12日・新島襄は川田甕江から餞別を贈られ、江戸を出帆。 

 ★川田甕江は新島襄の将来に期待していたのであろう。
 


※11月福沢諭吉が江戸築地に蘭学塾を開く。

・安政6年(1859)16歳 
※6月横浜・長崎・函館が開港される。 
※10月安政の大獄で吉田松陰が刑死。
G蘭学・・・杉田玄瑞について再び蘭学を始める。 

・万延元年(1860)17歳 
※3月 桜田門外の変・・・大老井伊直弼が暗殺。
 11月 徳川幕府の軍艦教練所に通い、数学や航海術を学ぶ。

  弟:板倉勝殷(かつまさ)の護衛役で、
  新島襄は安中に来た。

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・万延2年(1861)18歳 
  ※世界・キリスト教を知り、
祖国を離れようと思うようになった。

・文久元年(1861)18歳 
※3月ロシア軍艦が対馬事件を起こす。→小栗上野介が対応。 
※12月 公武合体政策で皇女和宮が降嫁。
  途中、安中の板鼻に泊まった。江戸へ下る。

・文久2年(1862)19歳 
 川田甕江は、備中松山藩:板倉勝静に180tの
  大きい洋式木造帆船の快風丸を購入するように進言→実現。
  アメリカ→快風丸が横浜で引き渡し→玉島(現倉敷市)

川田甕江は、備中松山藩:板倉勝静に快風丸に乗せるよう
推薦した。板倉勝静は安中藩主:板倉勝殷に依頼した。
 板倉勝殷は函館行きをOKした。
 →新島襄は川田甕江の推薦で快風丸に乗り組むことになった。
※函館は老中:阿部正弘の配下:岩瀬忠震が5ヶ国と通商条
  約を結んであった。
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 江戸・・送別会
 11月12日・新島襄は川田甕江から餞別を贈られ、江戸を出帆。 
 ★川田甕江は新島襄の将来に期待していたのであろう。
12月3日 玉島に上陸。
      名主の柚木家で風呂に入る。
※12月会津藩主:松平容保は京都守護職を拝命。


・文久3年(1863)20歳
※1月アメリカ大統領リンカーンが奴隷解放宣言を発表。
※2月 土佐藩郷士:坂本龍馬は土佐藩邸で帰藩を懇願。
※8月新選組の隊名が下される。
  土佐の天誅組が大和国で挙兵。
  新島の友人:松山藩士:原田亀太郎が刑死。
  薩摩藩の手で京都藩邸(=現同志社大学)が完成。

 蘭学と英語の勉強を始める。
  和訳のロビンソン・クルーソー等を読む。


・元治元年(1864)21歳 
3月 快風丸に便乗し、函館に向かった。
4月25日 函館から父:民治への手紙を出した。
   「川田先生への手紙差し出し下され候や」
※6月池田屋事件・・長州の勤皇浪士を惨殺。

出航準備
@英会話・・・ロシア人宣教師:ニコライから
 A福士宇之吉(英国商館員)との出会い
B函館・・目立たない服・髪型
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福士宇之吉がベルリン号船長:セーポリーに依頼。
 
6月14日夜
 ※脱国〜〜〜新島襄の手記〜〜〜
「 友人(福士)と待ち合わせ場所であった。・・・
見張りが近づいて来たが、・・
綱を外したとき、・・・「船長に会いに行かなければ
なりません。・・・」
・・船長は私達を待っていてくれた。・・・握手をした。
部屋に通され、船長の呼び出しを待った。・・・」
  
 ベルリン号船長:セーポリー 
 ベルリン号にボーイとして乗船=脱国
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  6月14日  函館→
 6月19日  遠州灘
 7月1日   上海
  8月11日  福州
 8月31日  福州発
 9月13日  上海
ワイルド・ロウバァー号船長:テーラー
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10月26日  上海発
 11月5日   香港
 11月24日  香港発
 11月39日  サイゴン(ホーチミン)
・慶応元年(1865)
1月14日  サイゴン発
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2月25日  香港
3月10日 香港発
3月15日  マニラ
4月10日  マニラ発
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 5月31日  喜望峰(南アフリカ:ケープタウン)
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7月21日  →アメリカのボストン着に
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※1年36日の船旅だった・・・。
@刀を船長に8ドルで買ってもらった。
 →漢文の聖書を買った。
 A食事代がないので、皿洗い・炊事・甲板磨き・掃除をした。
B船長から英語を教わった。
  C船長から「Joseph(ヨセフ)」→「Joe(ジョー)」と
  呼ばれていたことなどから、日本で「襄」としたそうである。
しかし、脱国の手助けをしたことで首になったが、
終生、交流を持った。


・慶応元年(1865) 22歳
    ワイルド・ロウバァー号でボストン入港。
    ※建物・汽車にビックリした。
しばらく、船で寝泊まりした。
   ※南北戦争中で、仕事はなかった。
『ロビンソンクルーソー』を読んだ。


船長が船の持ち主:ハーディを紹介してくれた。
ハーディは船10数隻を持つ実業家だった。
貯まった金はキリスト教の布教や学校に使った。
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  10月 ハーディの援助
   フィリップス・アカデミー(高校)に3年編入学。

  ヒドン家に下宿・・・英語を教わった。

・慶応2年(1866)23歳 
 アンドーバー神学校で修行
※1月寺田屋事件・・坂本龍馬が伏見奉行所の襲撃を受ける。
※7月 14代将軍:徳川家茂が死去。
※12月15代将軍:徳川慶喜が継ぐ。 

12月 →洗礼。
物理・数学・地理・英語・キリスト教などに没頭。


・慶応3年(1867)24歳 フィリップス・アカデミー(高校)
   を優秀な成績で卒業した。


テーラー校長が大学に推薦状を書いてくれた。
 9月 アーマスト大学(現同志社の姉妹校)に入学
    ・・寄宿生活。
  ・科学的な分野に興味を示した。

※11月14日 将軍:徳川慶喜は大政奉還をする。
※12月 王政復古の大号令が発令される。
※西軍との戦いを主張する小栗上野介VS 恭順派の勝海舟
小栗が解任。彰義隊には参加せず。


・慶応4年・明治元年(1868)25歳 
※1月鳥羽伏見の戦〜戊辰戦争へ。
 将軍:徳川慶喜は老中:板倉勝静を伴い京都から江戸へ帰る。
※4月 小栗上野介が斬首された。
※5月 ※結果、江戸城無血開城。
※8月長岡で河井継之助戦死。
   会津若松で西郷頼母死亡・白虎隊士自決。
※10月元号が明治となった。
※11月に東京に遷都。

夏休み中、ニューハンプシャー州の各地を歩く。


・明治2年(1869)26歳 
4月春休みを利用して、アーモストの製紙や織物工場を見学する。
※8月五稜郭を開城。戊辰戦争終結。
10月 9月2日付けの新島雙六の手紙を受け取る。
 川田剛(甕江)の消息・・・
「当節は山田文作と改名し、神田小川町上屋敷に住する。」

 恩人のテイラー船長の死亡の報を受け取り
  ボストンに遺族を弔問する。


・明治3年(1870)27歳 アーマスト大学を卒業
理学博士
祖父は死亡。
9月 アンドーバー神学校に入学。

・明治4年(1871) 28歳 
 2月 弟:新島雙六が死亡。
8月 森有礼(米国駐在少弁務使)の斡旋で
   日本政府旅券=パスポートと留学免許状が送付される。
 9月 カナダから帰米途中に、5月1日付けの川田甕江の
   手紙と受け取る。
  「弟:新島雙六が2月7日に病死した。」
  川田甕江は新島に帰国をするように奨めた。



・明治5年(1872) 29歳
※3月福沢諭吉が「学問のすすめ」を出版

「岩倉使節団」3月15日〜翌年1月
岩倉具視・木戸孝允森有礼・伊藤博文・田中不二麿
5月 森有礼の紹介で岩倉使節団の通訳となった。
   政府要人らに視察の便宜を図った。
教育制度についても説明した
キリスト教も許された。
日本に来るように誘われたが、断った。


 ヨーロッパ視察に参加することになった。
 ヨーロッパを回り、教育視察を行った。
 

6月1日 川田甕江が新島民治に手紙を出した。
   「全権大使のご用を仰せ付けられて結構だと述べる。」
 


・明治6年(1873)30歳
 1月 日本に帰国
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 2月 キリスト教の禁制高札が撤去され黙認される。
 7月 アメリカに戻った。
 9月 アンドーバー神学校に復学。

・明治7年(1974)31歳 

  7月   アンドーバー神学校を卒業。
 10月  教会で大学設立講演をした。
    で、3000人の聴衆が集まった。
「今までの10年を振り返った話をした。
    日本でキリスト教を広めたい。日本にキリスト教主義
    の大学設立をしたい。・・・。」
     5000$の寄付金を集めた。
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   ハーディ家で送別会
   ボストン→NY===汽車で大陸横断===
   サンフランシスコ〜〜〜船〜〜〜    
11月26日 横浜==汽車===東京・・・
人力車・・・安中に帰郷。

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  11月29日両親と再会。
龍昌寺・便覧社・自宅などで講演会を開催
   3ヶ月の滞在・・・

  神戸からの手紙「キリスト教の伝道に力を貸してくれ。」

12月19日 川田甕江に手紙を送った。
   「帰国した。」
  12月22日 川田甕江より返事の手紙が来た。
   「新島約瑟(襄の前の名前)へ帰国を喜んでいる。」
  12月26日 川田甕江を訪問する。


・明治8年(1875)32歳
1月 父宛ての手紙
初めて「襄」の字を用いる。
2月 大阪で木戸孝允に学校設立について援助を依頼。
4月 京都に入り、山本覚馬らに会った。
   京都での開学を勧められる。
6月 山本覚馬を訪問。

  京都府顧問で旧会津藩士:山本覚馬から
  学校用地=旧薩摩藩邸を550$で譲渡してもらった。


 11月29日 京都に「同志社英学校」を創立。(校長)
山本覚馬・山本八重(後に妻)・デビスなどの協力
→「同志の学校」の意味である。
生徒は8人であった。


・明治9年(1876)33歳
   山本覚馬の妹:「八重」と結婚。
 親族を安中から京都に迎え入れた。


・明治11年(1878)35歳
    安中:便覧社で、キリスト教を布教
   ・30人が洗礼。
   湯浅治郎徳富蘇峰柏木義円らを排出。
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・明治13年(1880) 37歳
 「自責の杖」事件
「先輩と後輩が一緒の級では嫌だ。」と言いだした。
旅から帰った新島襄は
「吉野山 花咲く頃は 朝な朝な 
   心にかかる 峯の白雲 」

と、詠んで、自分の手を杖で叩いた。
「誰の責任でもない。私の責任だ。」と言ったそうである。


・明治20年(1887)44歳 父が死亡。

・明治22年(1889)46歳
   11月28日 前橋で激痛。
 
12月 神奈川県大磯の百足屋で療養
「腹膜炎」

・明治23年(1890) 47歳
1月
  「いしがねも 透れかしとて ひと筋に
    射る矢にこむる 大丈夫(ますらお)の意地」

 
 八重夫人・徳富蘇峰・小崎弘道らに見守られて・・・
「真誠の自由を愛し、邦につくすような人物の養成・・
 「教職員は生徒を大事に取り扱うこと」
など10項目を遺言した。

 
 1月23日 神奈川県大磯で死亡。

棺は京都駅から同志社大学・・銀閣寺前・・南禅寺横
 ・・・若王寺山へ  墓
山本覚馬もここに眠っている。

※大正8年(1919) 安中教会
■安中教会
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●新島学園の教会堂
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◆◆ 同志社大学の知人 ◆◆
 何人かいるよ。けど、思い出せない。

 あ、そうだ。群馬県高崎市旧群馬町の「住谷悦治学長」も
 名前だけ知っているよ。額縁を幾つか見たから・・・。
 音楽恩師:高橋貞春氏と同志社大学学長:住谷悦治氏は
 ウィーンのベートーベンのハイリゲンシュタット遺書の家
 の近く同志で、200m程しか離れていなかったそうだ。
 お互い群馬県の隣町同志で仲良くなったそうである。
 夕飯にも時々呼ばれたという話をしていた。
 住谷悦治先生の身内には叔父共愛学園創設関係者:住谷
 天来氏・埼玉県の某市の名誉市民:弟・住谷磐根氏がいる
 こと位しかしらない。実家は・・・秘密にしておこう。



◆◆ 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」 ◆◆
東日本大震災を受け、NHKでは復興を支援する内容にすべき
との意見があがり、「八重の桜」 と決まったのだそうである。
■「八重の桜」の あらすじ〜〜〜〜〜。
@福島県会津出身の八重(主演:綾瀬はるか)は会津藩の砲術指
南の山本家に生まれた。
 裁縫よりも鉄砲に興味を示す活発な少女時代を過ごす。
A兄:山本覚馬を師と仰ぎ、会津戦争では、断髪し男装して大砲
台の指揮を執り戦った。「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。
Bしかし、会津藩が敗れてしまう。そして、夫と離婚する。
C八重は「鉄砲を鍛錬すること」→「知識を深めること」に生きが
いを見い出す。
D同志社大学の創設者である新島襄と再婚する。
八重は男女平等を強く望み、自分らしく生きる。世間から「天下
の悪妻」と言われることもあった。夫:新島襄はアメリカで西洋
文化に触れていたことから自由な生き方の八重を理解し、「ハン
サムウーマン」と称していた。
E晩年に八重は日清戦争、日露戦争で、自ら志願して篤志看護婦
(=戦傷病兵の看護する女性)として参加した。「日本のナイチン
 ゲール」としても後に評価された。大きな破壊を身をもって体験
 する八重が、明日に向かって歩き出す姿を描く。
       (★NHK大河ドラマ)

来年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、
新島襄・・・・俳優・オダギリジョー(36)
新島八重・・・綾瀬はるか(27)
●音楽担当
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新島襄は激動に揺れる幕末世相を超えて新世界への関心を持ち
 死を賭けて密航したことは、吉田松陰同様、閉鎖的な日本の中で
 異常なまでの勇気と志を感じるのだ。
 また、新島譲はいい出会いをしていた。特に川田甕江との出会
 い、生涯にわたっていた。福士・船長・ハーディ・テーラー校
 長、政府要人など・・・「運は運びだ。」と実感すした。

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★参考文献
@新島全集
A新島襄・・・新島襄刊行会
  :佐藤三木岩元教育長(★元青木昇自性寺焼の同門) 
BHpなど
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★明日は、岩倉使節団かな?



マンガで読む新島襄?自由への旅立ち
同志社大学
能田 茂

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小説・新島八重 新島襄とその妻 (新潮文庫)
新潮社
福本 武久

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箕輪初心★新島八重の周辺@「徳冨蘆花」
★徳富蘆花は、同志社大学に2回学んでいる。つまり、新島襄の弟 子である。山本覚馬の次女:山本久栄と熱烈な恋愛をする。 新島襄の妻:新島八重=山本八重から見れば、山本久栄は姪に 当たる。二人の恋を父:山本覚馬や新島襄や新島八重は反対し た。ここで、徳富蘆花は同志社大学を中退した。『黒い目と茶 色の目』は、山本久栄をモデルにしたいる。この徳富蘆花は 伊香保が大好きで、『千明仁泉亭』を常宿にして、10回訪れて いる。伊香保で徳富蘆花の出世作「不如帰(ほととぎす)」が書 かれたのだ... ...続きを見る
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2013/02/06 07:13
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★平成25年(2013)3月28日に新島襄先生の家&新島襄先生 &新島八重子さん&山本覚馬さんの墓参りに詣でた。 私にとって、今回の京都のハイライトである。同志社大学にも 行きたかったが、時間がなくなった。 ...続きを見る
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2013/04/13 07:21
箕輪初心★『日新館&保科正之&新島八重のパネル展』
「什の掟」 一、年長者(年上の人)の言ふことに背いてはなりませぬ 一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ 一、嘘言を言ふことはなりませぬ 一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ 一、弱い者をいぢめてはなりませぬ 一、戸外で物を食べてはなりませぬ 一、戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ   「ならぬことはならぬ」ものです。 ...続きを見る
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2013/04/25 05:58

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
 あけましておめでとうございます。
コロール泊でも高いのですね。それなら、パラスポ+コロール延泊がいいですね。
 今年は、どこ狙いでしょうか?
ゴリさん
2013/01/01 07:09
明けましておめでとうございます。
パラオの海は凄かったです。韓国経夕でいつか行って見たいです。帰りはソウル延泊がいいかなと思います。ロシアに行きたいなあと思っています。
ゴリさんへ
2013/01/01 09:35

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