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zoom RSS 箕輪初心●群馬【石倉城】=武田・上杉・北条の重要拠点

<<   作成日時 : 2012/12/21 06:44   >>

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平成23年(2011)8月、私は前橋市田口町の旧利根川本流
の発掘調査に参加した。戦国時代、利根川は前橋の北の桃井川
・広瀬川北を流れていたのである。群馬県の埋蔵文化財が
上武道延長の渋川高速道建設に伴う発掘調査中である。
★利根川の本流が変わる前に久留間川という利根川本流
から引いた用水路があったらしい。
(★石倉記・関東古戦録)
両岸に砦があったのではないだろうかと思い始めた。
画像


■訪問記・・・石倉は国道18号線を挟んで右左にある。
○NHK・群馬銀行を越え、坂を下った利根川に架かる
 橋の手前を左折する。できるだけ、利根川川岸を進む
 ようにする。
○群馬県庁(=厩橋城)のまるっきり、対岸が石倉城である。
 (前橋市石倉5丁目)
 
○本丸は小さな公園になっている。
○縄張り図
画像

○大きな黒御影の石碑「石倉城之記」が立っている。・・・
画像
 
★石倉城之記(黒御影の石碑)
 石倉城は文明17年(1485)上野国守護代で蒼海城主の
長尾忠房の嫡子長尾憲景が築城した。応仁の乱が終わって
(1477)8年後のことである。当時の利根川の本流は現在
の広瀬川周辺より左岸側に巾広く流れていた。橘山の麓より利
根川の水を久留馬川という小流を利して城の堀に引き入れたという。
 山内・扇谷両上杉氏が相争い、その間隙を突いて北条早雲が
関東進出を企て、いよいよ戦国時代の様相を帯びてきた。一方、
総社長尾氏と白井長尾氏が対立し、箕輪の長野氏が台頭して
きた。(対岸の厩橋城は箕輪城の築城より早い?)
 長尾憲景は永正9年(1512)新井城の戦いで戦死、三男
長景が城主となった。その後、享禄・天文・弘治年間
(1528〜1557)にわたる数回の大洪水によって本流が
久留馬川に移り、現在の利根川になった。
 永禄6年(1563)武田信玄の西上野への進攻に際し、
長景は厩橋城の守りについたが、留守を信玄が乗っ取り、城代と
して曽根七郎兵衛、與左衛門の兄弟を置いた。
 永禄8年(1565)越後の上杉謙信がこれを攻めて奪還し、
荒井甚六郎を城代として守らせた。石倉城は関東の要衝であるた
め 永禄9年(1566)7月、再度信玄に攻め取られ、武田の
武将で保渡田城主の内藤修理亮昌豊及び外記親子が兼帯した。
その後内藤政豊は長篠の合戦で討死にし、外記は厩橋城代北条
丹後守高広に降り、北条の臣である寺尾左馬助(石倉治部)が
守った。
 この間八十有余年にわたり幾多の攻防と凄惨な流血の歴史を
くりかえし、天正18年(1590)5月、徳川勢の進攻に対
し寺尾佐馬助は井野川の戦いで奮戦したが、戦い利あらず石倉
城に退いた。攻めるは松平修理大夫康国であった。康国はこの
戦いで戦死、弟の松平新六郎が一千有余騎で攻めまくった。
左馬助を始め城兵は死力を尽くして戦ったが、武運つたなく今
はこれまでと城に火を放ち、左馬助を始め残る城兵ことごとく
城炎と共に相い果て、ついに落城の運命となった。
この様に幾万の将兵が死闘を尽くして戦った城池も、戦国の世
と共にまぼろしの彼方に消え去り、今はただ「石倉」という地
名を残すのみとなった。
 よって後の世にその名をとどめ伝えべく、石倉城の記とした。   
   高橋三郎謹書 (★石碑より)


○対岸が厩橋城=県庁である。
画像


◆◆ 厩橋城との関連 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201212/article_20.html
▲15世紀末・・1490年とも? 石倉城を築城
 箕輪長野氏一族の長野左衛門尉方業(固山宗賢)が
 箕輪城の支城として築城された現在の利根川対岸の
 石倉城がその始まりであるとされる(伝)。

・天文3年(1534)石倉城築城時に低地帯を台地の東に流れて
 いた利根川の本流の氾濫により流路を変え石倉城の水路
 に流れ込み、本丸・二ノ丸などを崩壊させてしまった。
 当時の城主長野賢忠(長野方業、法号・固山宗賢)が
 残った三の丸を拠り所に再築した城が、後に厩橋城と
呼ばれるようになったという(伝)。
      (★ウキペディア)
関八州古戦録「石倉砦の争奪」では、
蒼海城の長尾忠房が用水路:久留間川を利根川から
引き、9年かかって石倉城を建設した。完成は長尾景道
の時であった。しかし、洪水で本丸・二ノ丸が崩壊。
三の丸を利用し、長尾景道の孫:長尾景忠=賢忠が
厩橋城を造り直した。


しかし、ウキペディアの説では、石倉城が300mも
あり、現在の利根川の両岸の高さが同じ位ということから
考え、県庁が三の丸という説は無理があると思われる。
従って、あるとすれば、久留間川=現利根川を挟んで2つの
石倉砦のような砦が存在したことになる。約300mも
離れているので、あり得る考えになるとは思う。

(★箕輪初心:厩橋城の掲載文書)と考えると、
「用水路=久留間川=現利根川に沿って、2つの石倉城が
存在することになりはしないだろうか?・・・
理由は、関東古戦録の「@長尾忠房が蒼海城から移るため
に築いた城とは違う。」とある。A現在の利根川右岸に一つ
上石倉城。左岸に一つ階梯式の石倉砦があったのではないか。
つまり、長尾氏系の石倉城、長野氏系の石倉城があったの
ではないだろうか?・・・だって、船底式の石倉城が無理
な構造で二の丸あったなんって、関東古戦録やウキペディ
アの説を信じるのは無理があろう。戦国時代前期に現利根
川を挟んで、船底式の砦が城形態などはあり得ない。
また、平らな地形だとしても、相当大きな砦ということになる。
もはや支城規模ではない。

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◆◆ 石倉城の歴史 ◆◆
・文明17年(1485) 上野国守護代:蒼海城主の長尾忠房の
         嫡子:長尾憲景が築城(伝)。
・永禄8年(1565) 武田信玄が上杉謙信方の厩橋城と
         箕輪城を分断する目的で修理。
         武田信玄は石倉城を拠点に箕輪城を攻略。
・天正20年(1582) 武田氏滅亡→後北条氏の持城
・天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原征伐
後北条氏家臣・小林左馬助が守将。
          松平康国らによって攻められ開城。
         石倉城明け渡し時の手違いにより松平康国が
         討たれるという事件が勃発。
        長尾氏は石倉城(蒼海城支城:前橋市)に移封。

●● @石倉砦の争奪(関八州古戦録) ●●
箕輪城攻略に当たり、武田信玄は厩橋城からの箕輪城
後詰めを押さえるために、石倉の砦の争奪した。
・・・(中略)・・・
・永禄8年(1565)上杉方の北条高広は、不意に石倉の砦
を襲った。荒尾甚六郎を守将に置いた。
・・・(中略)・・・
武田信玄が石倉の砦の奪還のため、3方から攻めた。
馬場信房に新しく縄張りをさせ、曽根兄弟に騎馬30
足軽70人を置いた。
・・・(中略)・・・
その後も、武田・上杉間で争奪戦が繰り返された。
・・・(中略)・・・
・元亀3年(1572)上杉謙信が破城にした。
・・・(中略)・・・
その後、武田方の箕輪城代:内藤昌豊は、境目の城と
して、警戒に当たった。

●● A石倉砦の争奪(関八州古戦録) ●●
・天正18年(1590) 後北条氏の守将:石倉治部がいたが
 北国勢:芦田康国・康寛兄弟(★佐久で戦死した依田玄蕃
の子
)は、西牧の砦(★下仁田町:北条の多米氏が守ってい
た城)
と攻め落とすと、石倉の砦に向かって、進撃した。
   (★石倉記)
他の戦記に
「寺尾佐馬之助は石倉の砦の明け渡すと欺いて、芦田康国と
対面中これを刺殺した。弟:依田康寛と依田筑後守昌種は、
直ちに攻め入って、佐馬之助を討ち取り占領した。」
徳川家康は、「康」の字を与えたいたのである。・・・
芦田康国・芦田康寛。・・・小田原平定後、芦田康寛は、
藤岡(★芦田城=現藤岡第一小学校)に封じられた。





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箕輪初心●群馬【蒼海(おうみ)城 】千葉氏→長尾氏→諏訪氏
★平安末期に石上=長野一族(後箕輪城主)が上野国国司の 2・3として現群馬町国府に在地役人として入ったが、 2年後の「1192造ろう鎌倉幕府」の年には無用の在地官 僚にとなってしまった。鎌倉時代には千葉氏が総社に入 って来たため、長野一族はしかたなく、現高崎市浜川町の 東山道沿いに移住した。室町時代には足利の有力家臣: 上杉家の家宰職の長尾一族が入って来た。長野一族と 長尾一族はライバル関係になっていった。 ...続きを見る
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2012/12/22 08:09

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