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zoom RSS 箕輪初心◎長篠の戦い後編:設楽原の激闘&上野国関係者

<<   作成日時 : 2012/11/30 20:05   >>

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長篠の戦いは、天正3年5月21日(1575年6月29日)、
三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長
・徳川家康連合軍3万8000 VS 武田勝頼軍1万5000との
間で勃発した戦いである。大量の火縄銃の攻撃の前に、
歴戦の名将・武将を多く失った。 @通説では、最新兵器で
あった鉄砲を3000丁で三段撃ちを実行した織田軍を前に、
当時最強と呼ばれた武田の騎馬隊は殲滅させられたとされ
る。しかし、実験の結果、A鉄砲を効果的に使った説、
B兵力差 よる敗戦説が有力視されつつあるそうである。
 
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★この冊子や長篠城祉史跡保存館の資料等より編集
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(★長篠歴史資料館より)
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◆◆ 箕輪初心◎長篠の戦い前編 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_25.html

◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html

◆◆ 箕輪初心★【奥平一族は群馬出身】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html




◆長篠歴史資料館=武田勝頼本陣後ろ
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●5月12日〜14日 武田勝頼は総攻撃を開始。
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■5月13日 織田信長が岐阜を出発。
織田信長は3度目の松平元康からの手紙には
 「もし、援軍を出してくれぬなら、武田に遠江を譲って
  和睦し、武田の先方となって尾張を攻める。」とある。
(★甲陽軍艦)
 @織田信長は、棒1本と縄1本を持つように指示した 
A織田信長は、出陣しない武将から鉄砲&足軽鉄砲隊
  を出させた。

■5月14日 織田信長が岡崎に到着。
徳川家康と合流38000になった。
▲鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された
 城を抜け出し、岡崎の徳川家康に援軍を頼みに行く
 ため川を潜水し、対岸に渡った。長篠城を脱出
▲5月15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着。
  鳥居強右衛門が織田信長に謁見。
  ※鳥居強右衛門徳川家康に報告すると、制止を聞かず、
 長篠城に帰ることにした。
▲5月16日 しかし、鳥居強右衛門は武田の兵に捕まった。
●武田勝頼は「長篠城に向かって『援軍は来ない。』と
 告げれば、命を助けてやる。」という取引を持ちかけた。
▲しかし、鳥居強右衛門は大声で援軍の到来を城兵に告げた。
●武田勝頼は長篠城対岸で磔にしたのだった。
(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)
▲鳥居強右衛門の決死の働きで長篠城は士気が上がった。
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(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)

▲■5月17日 織田・徳川は野田城に到着。野陣。
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▲■5月18日 織田信長3万、徳川家康8千=3万8000
の援軍は長篠城の西方約4kmにある設楽原に到着した。
 @織田信長は後方の極楽寺山に本陣を置いた。
 A 副将:織田信忠は天神山である。
 B徳川家康達は連吾川に沿って西側に陣を築いた。
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(★長篠歴史資料館の屋上より)
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     ■
■佐久間 ■
・・・・・→信長 ■丹羽長秀
■織田信長 ■織田信忠 ■羽柴秀吉



   ▲石川数正
▲松平信康 ▲鳥居元忠
▲松平元康 ▲本多忠勝
  ▲榊原康政
▲平岩親吉 ▲内藤信成
▲本多忠勝 ▲大久保忠世・忠佐

5月18〜20日 馬防柵を構築開始。

▲ついに、奥平貞昌は徳川家康と織田信長の連合軍
 3万8000の到着まで、長篠城を守り抜いた。
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●5月19日 武田勝頼は軍議を開いた。
@武田氏老臣・・内藤昌豊・馬場信房・山県昌景など
   →長篠城&織田・徳川との戦いに反対。
 A武田氏新興・・跡部勝資
→長篠城&織田・徳川との戦いを断行。


武田勝頼は
 「3日がかりで、陣を作る織田・徳川軍は弱い。
  びびってるな。・・・武田は織田・徳川戦で
  一度も負けたことがない。兵力差なんて
  なんのその・・・」と、思ったのだろう。



●5月20日 武田勝頼は長篠城攻略を一時休憩。
 武田軍は長篠城の包囲を解いて、設楽原へ進出した。
 武田軍と織田徳川連合軍は設楽原の地で対峙した。
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▲馬場信房
▲真田信綱
▲土屋昌次
   ▲穴山信君
▲一条信龍
 ▲武田勝頼・・・3000 武田信光・望月信雄
▲小幡信貞
▲武田信廉
▲内藤昌豊
▲原昌胤
▲山県昌景
▲武田信実(長篠城押さえ:鳶が巣山)

▲5月21日 
 長篠役・設楽原決戦の始まりである…。
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【1】鳶ノ巣山での戦闘・・・酒井忠次の奇襲
酒井忠次隊3000とも4000とも
+奥平貞能+菅沼定□ +金森長近鉄砲隊500
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5月20日、午後8時頃、織田・徳川軍の陣地を出発した
 後方奇襲部隊:酒井忠次約4000は、南から舟着山を回っ
 て5つの砦の背後に回った。
 織田信長の作戦である。
酒井忠次の子孫は群馬県前橋城の城主になった。)
小栗上野介(高崎市倉渕で斬首)の先祖:小栗又一
▲渡辺守綱・・・酒呑童子の話に出てくる渡辺綱子孫
21日の未明には、鳶ノ巣山に到達した。
夜明けを待って、鳶ノ巣砦を急襲し、火をかけた。
※『信長公記』
「五月廿一日辰刻(午前8時)取上り、旗首を推立て 凱声
を上げ、数百挺の鉄炮を□□とはなち懸け、責衆を追払ひ、
長篠の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小足々々
焼上げ、籠城の老忽運を開き、七首の攻衆案の外の事にて
候問、癈忘致し、鳳来寺さして敗北なり。」
武田の鳶が巣砦など5つの砦の者達は
 「まさか、背後から敵がくるとは思っていなかった」
 武田軍によって長篠城を包囲する五砦の一つとして築かれ
 たこと中山砦には、飯尾助友・飯尾祐国・五味与惣兵衛
 ・名和田清継・名和無理之助が入城して守将を務めた。

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▲酒井忠次の奇襲部隊は鳶ノ巣山周辺の君ヶ伏戸・中山砦
 などの拠点も落とし、鳶ノ巣山の5つの砦を全て落とした。
 長篠城の兵と合流した。
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 長篠城の西の武田軍を攻めた。
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▲▲武田軍の戦死者 ▲▲
 @武田信実=武田信玄弟
 A和田兵部=和田信業(跡部勝資長男):上野国和田高崎城
・・・戸田重元に討ち取られた。
★高崎下之城・・・和田兵部は和田業繁の弟(信業の叔父)。
  ★後に井伊直政が和田城→高崎城を築城。
 B反町大膳(和田信業家老):高崎駅東400m反町館
 C三枝守友・・・・石原氏からの養子
 D飯尾助友・祐国:上野国高崎山名かも?通説遠江出身
 D五味貞成
 E名和無理介=那波無理介:上野国伊勢崎那波城・毛呂城
F大戸民部:上野国現東吾妻町の大戸城
G倉賀野秀孝:上野国現東高崎市の倉賀野城
H名和重行・・・小栗又一&渡辺守綱に討ち取られた。
 I高坂昌澄・・・などが討ち死。


▲松平伊忠(これただ)が戦死。





▲■設楽原激闘開始●
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【2】山県昌景の赤備え隊突撃開始 5月21日
午前6時 小競り合い開始
『信長公記』・・戦いは「日出から」とある。

午前11時頃 設楽原で戦闘が本格化
『信長公記』
■織田信長は極楽寺山から家康のいた高松山に移動
  織田信長は鉄炮1000挺の部隊を結成。
 佐々蔵介=佐々成政・前田又左衛門・野々村三十郎
 ・福富平左衛門・塙九郎左衛門の5人の奉行を任命。
 千人ほどの鉄砲隊を編成した。

武田軍の波状攻撃(午前11時〜午後2時)
『信長公記』や『甲陽軍鑑』
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一番南にいた左翼の山県隊3000から攻撃が始められた。
武田軍左翼の山県隊は、右翼の徳川隊に攻撃を仕掛けた。
山県昌景は馬で連吾川まで行き、指示した。家臣は馬を
降り、重い鎧で水かさの増えた川を渡る。川を越えると
鉄砲の餌食になった。

▲徳川軍の大久保忠世隊6500の内の鉄砲隊が撃退した。
 山県軍が引くと、大久保軍が柵を出て戦った。
 でも、鉄砲が柵を出た味方に当たってはいけないから
 鉄砲射撃はできない。だから直ぐ戻った。 
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左翼ではこの後に原昌胤、内藤昌豊が攻撃を繰り返
 した。
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▲『甲陽軍鑑』・・・馬防柵に9回とあるそうだ。 

▲▲ 大久保隊での武田軍の戦死者
@山県昌景
 A原昌胤
 B小山田信茂・・岩殿城(現山梨県大月町岩殿)
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【3】織田・徳川連合軍の三段式鉄砲隊の活躍
 織田軍中央と織田軍左翼 VS 武田勝頼中央 
佐々成政らの五奉行
羽柴秀吉・丹羽長秀
A●武田信廉の部隊は攻撃を繰り返した、織田軍が攻めれば、
  退き、退けば攻撃した。

 ■織田信長の命令通り、鉄砲で多数を撃たれた。

B●小幡信貞隊も入れ替わり攻撃。
小幡信貞:上野国。
  国峰城・宮崎城(現群馬県富岡市)

後に、奥平貞昌=信昌が入城。
 ■織田軍は後方の「身がくし」=土塁に隠れ、鉄砲を構えて
 待ちうけた。
 小幡軍は鉄砲で多数を失った。

C●武田典厩信豊(勝頼の従兄弟)も入れ替え攻撃。

■織田方は鉄砲隊だけで戦ったのだ。
武田軍は多数を撃たれて退却した。
堀、柵、土塁+土塁裏の鉄砲隊の前に
中央の武田軍は柵越えられず死者を増やしてしまった。

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【5】設楽原の戦いの中盤
 織田軍左翼   VS   武田軍 
 佐久間信盛       ・馬場美濃守信春
 ・水野信元ら      ・真田信綱・真田昌輝
               ・土屋昌次ら
武田右翼部隊は三重柵の内の二つ破った。
武田方が多くが撃たれた。

(★『甲陽軍鑑』・・長篠合戦図屏風より)

土屋昌次が討ち死に
  三増峠の戦いで箕輪城代・浅利信種が戦死すると、
  浅利同心衆も相備えとして付けられる。
  甲斐名門の土屋家を継承。
 ★上野国の勤務になった。
しかし、城は不明。内藤昌豊との上野国の支配
のための一員として、群馬に在城したと考えられる。
内藤昌豊の実質的支配の城:保渡田城
 (★群馬県高崎市:旧群馬町・かみつけの里
  土屋文明文学記念館北東200m)
 ★この地区は、土屋姓が多い。  
  長篠の戦いでは、敵の三重柵の二重まで突破し
  たところで一斉射撃を受け戦死した。


 
甘利信康の討ち死に
甘利昌忠&甘利春吉=康忠の家臣
甘利備前守虎泰以降
@「晴吉、藤蔵、利重」=「昌忠=信忠、信康、信恒」
A3人の名前が実は2人だという説
  「藤蔵」「信康」が前後のどちらかと重複するのか
  定めがたい。
B私説・・・年齢と虎泰の後継者の意味から
 甘利信康=甘利晴吉=甘利昌忠 
 甘利氏は長篠で討死し絶えた?。
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安中景繁(忠成)の安中一族壊滅。
 甘利晴吉の娘婿
 ★安中城は後に井伊直政長男:井伊直孝入城。
安中景繁(忠成)松本重友
 松本丹後守吉久が戦死した(伝)。 
 ★上野国安中の天王山城



●横田綱松が討ち死に

真田信綱・昌輝兄弟も討ち死。
※父:真田初代の真田幸綱=幸隆の長男・次男。
 3男は武藤喜兵衛=真田昌幸である。
★墓は長野県上田市の信綱寺

●●真田幸隆第一家老:鎌原重澄も戦死。
  ★上野国吾妻郡嬬恋村の鎌原城
真田幸隆第二家老:根津□□も戦死。
  ★上野国岩櫃城志摩郭?
真田幸隆家臣:富澤□□も戦死。
  ★上野国東吾妻町岩下城 




◆◆ 説楽原での激闘 ◆◆
http://eikorekken.client.jp/collaborate/nagashino/07.htm
「鉄砲」とか「撃たれ」がよく出てくる。
しかし、実験結果から三段撃ちはありえないものの、
鉄砲を効果的に使ったのは事実だったようである。


【6】武田軍の総崩れ&戦線離脱&殿の馬場信房の死
●武田の損害は甚大。
午後1時頃〜
中央の穴山信君・武田信豊・武田信廉などの
武田勝頼の親類衆が両翼が崩されのを見て
勝手に撤退開始。

■織田信長が総攻撃を開始

午後2時頃〜
 耐えきれなくなった武田敗走兵が武田勝頼の
 本陣に集結。
●→武田勝頼は打って出ようとしたが、側近に制止され
 退却を決意した。退きはじめた。
●武田勝頼は、戦線離脱。
 寒狭(かんさ)川沿いに鳳来寺に逃げた。
 伊那谷に着いたときは、4名の家臣しかいなかった。


●殿(しんがり)は馬場信房・・・
長篠城西300mで戦死。
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※おまけ・・中央構造帯の露出


馬場の死を見届けた内藤昌豊も織田軍に
 飛び込み、戦死。
 内藤昌豊(当時は、上野国:高崎市の箕輪城)。

後に徳川四天王筆頭:井伊直政が入城。



【8】結果
●武田の大敗
長篠・設楽原の戦いで、武田氏は没落の一途を辿ること
になった。
■▲そして織田・徳川の勢力を強大にした日本史上
重大な意味を持つ戦いになった。






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