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zoom RSS 箕輪初心◎【長篠の戦い】前編:武田VS松平+織田の動き

<<   作成日時 : 2012/11/29 07:09   >>

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天正3年(1575)4月末 武田信玄を継承した武田勝頼は
西へ勢力を伸ばすため、3遠の重要な拠点となる長篠城
を目指した。甲斐・信濃・上野の兵1万5千の軍を率い
てやってきたのだ。信濃伊那谷→青崩峠→天竜川沿い→
遠江の渋川→三河入りした。一部隊を長篠へ、本隊は吉
田城を目指した。5月長篠城を包囲した。長篠城は、三
河路の小城である。しかし、武田も徳川とって長篠城の
領有は重要な意味を持っていたのである。

武田3遠計画 VS 松平元康領土計画+織田信長覇権構想 
画像

★この本をベースにまとめてみた。

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◆◆ 箕輪初心●愛知【長篠城】=菅沼→奥平の城へ ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_24.html




【1】東三河の戦国時代
@下克上


A山家三方衆
1)菅沼家の系譜
※菅沼氏は美濃土岐氏の庶流で、奥三河の豪族である。
・永享6年(1434) 土岐定直は長篠の作手菅沼に進出。
  菅沼俊弘を討ち、菅沼定直に改姓。
  愛知県長篠に2家に別れた。 
・永正5年(1508) 長篠菅沼満成の子:元成が長篠城を
築城。

2)奥平家の系譜
・天授年間(1375~1380)
 初代:奥平貞俊・・・作手領主:山崎左衞門高元を
頼って上州奥平(群馬県高崎市吉井)から作手に来
た(伝)。郷人を従属。
   「郷主」となり、代々七百貫文を領した。
  @川尻城築城・・・A亀山城築城
 2代:奥平貞久・・・近在に奥平一族を配している。
 3代・奥平貞昌・・・
・文明年間、奥平貞昌が日近城を築城。
  2男:松平貞直が日近奥平氏の祖となった。
 今川義元の東三河侵攻・・今川氏に従属。
 東三河に松平清康(家康祖父)が遠征すると松平氏に従属
 松平清康が東三河に進出。宇利久城攻撃に従軍。
 守山崩れ・・・松平清康が横死。
 三河は今川氏の領国となり、再び今川氏に従属。

4代:奥平貞勝・・・今川氏に従属。
 
・永禄3年(1560)5月19日(=6月12日)【桶狭間の戦い】
今川義元+徳川家康 VS 織田信長
今川義元戦死。
→長篠城は松平元康(=徳川家康)の支配下。
 
・元亀2年(1571)  
●武田信玄の三河侵攻
山家三方衆:奥平貞勝は一族宗家として
 「武田信玄に属したい。」と考えた。
 東三河の国衆とともに武田信玄に従属。
●武田信玄は奥平貞勝が今川氏→松平氏に属した経緯
 から馬場信春に古宮城を築かせ、監視させた。 
 ※古宮城は虎口・馬出しに武田流築城法が残存。

※山家三方衆・・
@作手の奥平(上州吉井の奥平の子孫が移住)
A田峯の菅沼・・土岐=菅沼定直の長男:定成系
B長篠の菅沼・・菅沼定直の子:定信系
+富永氏から野田を委託。・・菅沼定信の分家。
※3家は結婚で、勢力保持。


【2】長篠城築城と武田信玄の侵攻
・元亀4年(1573) 野田城の戦い
●1月 室町幕府15代将軍足利義昭の信長包囲網に
    呼応した武田信玄は野田城を攻囲
▲2月 野田菅沼定盈は野田城を開城。
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●4月 →武田信玄が駒場死亡。




【3】武田信玄逝去後の長篠城変遷
・天正元年(1573) 
 松平元康(=徳川家康)は三河国の武田方支城を奪還。

5代:奥平貞能と嫡子:奥平信昌が作手を退去。
 貞能・信昌親子は徳川家康に本領安堵。
 徳川家康は
 @長女:亀姫を松平信昌と婚姻すること、
 本領など三千貫文の地を宛行うこと、
 を約束した。
 奥平貞能と奥平信昌が徳川氏に従属。
 
 5代:奥平貞能は額田郡亀穴城城代。
 6代:奥平貞昌21歳は長篠城城代。
 
 →武田勝頼は、奥平貞能親子の離反に怒った。
  奥平貞能2男=奥平貞昌の弟:仙丸
 日近奥平貞友の娘:おふう
  を磔にした。

奥平貞昌の大叔父、叔父、弟、甥の4世代で支族を分出。
 奥平貞昌の宗家は、奥平氏族をの重臣として厚遇
 身内から有力7家&小領主5氏が選出。
 計・・12家は七族五老奥平氏の家老衆となった。

 
【4】武田&織田・徳川の長篠城戦いの事前状況
※長篠城は、三河路の小城である。しかし、
 武田も徳川とって長篠城の領有は重要な意味を
 持っていたのである。
武田の3遠計画 VS 松平元康の領土計画

武田家:当時の状況
 総石高は約130万石・・・当時最大規模。
 +動員可能兵力・・・3万3000人で最大だ。
長篠城攻めに全兵力を割く訳には行かない。
 @武田氏老臣・・内藤昌豊・馬場美濃守信房など
   武田勝頼を軽んじる傾向があった(伝)。
→長篠城&織田・徳川との戦い反対派に発展
 A武田氏新興・・跡部勝資
→長篠城&織田・徳川との戦い断行派に発展
→武田勝頼にとっては 武田家の三河長篠城が徳川家の
  支配下にあるのは、望ましくない状況であった。
 武田勝頼「俺は父:信玄にも劣らない武将になろう。
  『武田家に、勝頼あり。』と威信を内外に示すため
  には、長篠城奪還が必要不可欠だろう。やってやる。」


松平=徳川家:当時の状況
 総石高約50万石。・・・動員可能兵力は、10000強程度?。

・元亀4年・天正元年(1573) 野田城の戦い
●1月 室町幕府15代将軍足利義昭の信長包囲網に
    呼応した武田信玄は野田城を攻囲
▲2月 野田菅沼定盈は野田城を開城。
●4月 →武田信玄が駒場死亡。
▲5月 徳川家康が駿河に侵攻・・横須賀城
★★徳川家康 
 「やったあ。武田信玄が死んだ。
 武田信玄はこわかった。うんこちびちゃった
  あれ、おしっこだっけ?
  武田勝頼はまだまだ甘い。チャンス。
  長篠城を奪還できるぞ。」 
     
 「行く末は武田か織田かどっちか?」
  織田信長 > 武田勝頼 だろうな?」


▲7月 徳川家康が長篠城を攻撃。
▲9月 徳川家康が長篠城奪還。
   奥平貞能と嫡子:奥平信昌が作手を退去。
   奥平貞能は額田郡亀穴城城代。
   奥平貞昌21歳は長篠城城代。

●武田勝頼は、奥平貞能親子の離反に怒った。
  奥平貞能2男=奥平貞昌の弟:仙丸
 日近奥平貞友の娘:おふうを磔にした。

・天正2年(1574)
  2月 武田勝頼が美濃:明智城を攻撃。
5月 武田勝頼が遠江:高天神城を攻略。
      三方ヶ原の戦い

●武田勝頼が長篠城奪還に向けて動きだした。
徳川家康「しかし、我が兵力は約10000。単独では
 武田勝頼に勝つことはできないだろう。織田信長の
 助力を得なければこの事態を打開できないだろう。」
 と思った。
 



織田家:当時の状況
 総石高は400万石強? 総兵力は10万以上。
 (※織田信長は、武田対策に投入できる兵員数に
   限界があった。)
 織田信長の当面の課題は、武田信玄と傀儡将軍:
 足利義昭の信長包囲網だった。
 織田信長の危惧 
 @浅井・朝倉の連合軍
 A武田信玄の将軍家接近
 
織田信長「何、武田信玄が死んだか。ラッキー、包囲網
 は足並みが乱れるだろう。俺の敵は。東の武田・西の毛利だ。
 近いうちに武田を叩いておこうかのう。」・・・


・天正2年(1574)9月 長島一向一揆を鎮圧。
・天正3年(1574)4月
 「何、武田勝頼の大軍が長篠を攻め寄せてきた。」
 という知らせ。・・・
織田信長「もしかして、武田勝頼との決着をつける絶好の
  チャンスかも・・・はっはっはっ。」
 



【5】長篠城の興亡戦
天正3年(1575) 武田信玄のあとをついだ武田勝頼は
  西へ勢力を伸ばすために重要な拠点となる長篠城を
  1万5千の軍を率いてやってきた。
▲2月 徳川家康は奥平貞昌を長篠城主に任命。
■4月 織田信長は本願寺攻撃中

●4月末 武田勝頼の一部隊が長篠に到着。
●5月6日 武田勝頼の本隊は吉田城を攻略。
        二連木城・牛久保城を攻略。


5月8日 武田勝頼は約1万5000の兵力を投入し、
     長篠城奪還のため、長篠城を包囲。

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@大通寺山・・・馬場信房等2000
A天神山・・・・土屋昌次等2500
B篠場野・・・・穴山信君等1500
C有海原・・・・山県昌景等1000
 D医王寺山・・・武田勝頼等3000 
E鳶が巣山・・・武田信実等1000
F岩代・・・・・内藤昌豊等2000
 G本陣後方・・・甘利信康等2000 
Hその他:久間砦・中山砦・姥が懐砦・君が伏床砦

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     武田軍の猛攻開始。

▲→城主:奥平貞昌以下500の兵は鉄砲200挺で
  長篠城の城兵は粘り強く抗戦を続けた。

▲5月10日 奥平貞昌は、織田信長、徳川家康へ救援を
 依頼。

●5月11日 武田軍は野牛門を猛攻。
         長篠城は岩石落とし・弓・鉄砲で応戦。


●5月12日〜14日 武田勝頼は総攻撃を開始。

■5月13日 織田信長が岐阜を出発

■5月14日 織田信長が岡崎に到着。
徳川家康と合流

●武田軍が長篠城内に侵入・・・食料庫を破壊。

▲鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された
 城を抜け出し、岡崎の徳川家康に援軍を頼みに行く
 ため川を潜水し、対岸に渡った。長篠城を脱出
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▲5月15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着。
  鳥居強右衛門が織田信長に謁見。
  ※鳥居強右衛門徳川家康に報告すると、制止を聞かず、
 長篠城に帰ることにした。
▲5月16日 しかし、鳥居強右衛門は武田の兵に捕まった。
●武田勝頼は「長篠城に向かって『援軍は来ない。』と
 告げれば、命を助けてやる。」という取引を持ちかけた。
▲しかし、鳥居強右衛門は大声で援軍の到来を城兵に告げた。
●武田勝頼は長篠城対岸で磔にしたのだった。
(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)
▲鳥居強右衛門の決死の働きで長篠城は士気が上がった。
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(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)

▲■5月17日 織田・徳川は野田城に到着。
▲■5月18日 織田信長3万、徳川家康8千=3万8000
の援軍は長篠城の西方約4kmにある設楽原に到着した。
  連吾川に沿って陣を築いた。

●5月19日 武田勝頼は軍議を開いた。
@武田氏老臣・・内藤昌豊・馬場美濃守信房など
   →長篠城&織田・徳川との戦いに反対
 A武田氏新興・・跡部勝資
→長篠城&織田・徳川との戦いを断行

●5月20日 武田軍は長篠城の包囲を解いて、
 設楽原へ進出した。





★明日は、設楽原の戦いかな?

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