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zoom RSS 箕輪初心●愛知【長篠城】=奥平信昌の先祖は群馬出身

<<   作成日時 : 2012/11/28 05:54   >>

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天正3年(1575)5月、武田信玄のあとをついだ武田勝頼は
西へ勢力を伸ばすために重要な拠点となる長篠城を1万5千
の軍を率いて包囲し攻撃した。城主奥平貞昌以下500の兵は
鉄砲200挺で攻撃に耐えたが、限界となったため、織田信長、
徳川家康へ救援を請うため鳥居強右衛門を岡崎へ派遣した。
鳥居強右衛門の決死の働きにより、5月18日、織田信長3万、
徳川家康8千=3万8千の援軍は長篠城の西方約4kmにあ
る設楽原に到着し、連吾川に沿って陣を築いた。当時最強を
誇っていた武田軍は20日、長篠城の包囲を解いて設楽原へ
進出し、21日の夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入
した。しかし、大量の火縄銃の攻撃の前に、歴戦の名将・
武将を多く失った。武田勝頼は、数騎の味方に守られて敗走
した。この戦いで武田氏は没落の一途を辿ることになり、織
田・徳川の勢力を強大にした日本の歴史上重大な意味を持
つ戦いになったのだ。

(★長篠城祉史跡保存館の資料より編集)
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(★鳥居強右衛門勝商の磔の絵)
○長篠城の入り口の看板・・・鳥居強右衛門だ。

鳥居強右衛門勝商は、武田勢によって包囲された城を抜け
 出し、岡崎の徳川家康のところまで援軍を頼みに行くため
 川を潜水し、対岸に行った。徳川家康に報告すると、制止
 を聞かず、長篠城に帰ることにした。しかし、武田の兵に
 捕まった。武田勝頼から、「長篠城に向かって『援軍は来な
 い。』と告げれば、命を助けてやる。」という取引を持ち
 かけられた。大声で援軍の到来を城兵に告げ、長篠城対岸
 で磔にされたのだった。



◆◆ 箕輪初心★奥平一族の歴史 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201211/article_23.html


【1】f30長篠城址史跡保存館
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「日本100名城」の「長篠城」の城址(国史)看板
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午前9時から午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日・・毎週火曜日
設楽原歴史資料館と長篠城址史跡保存館の共通観覧券
で入った。400円だ。

●館内案内
「長篠の攻防」と「設楽原の決戦」に関する資料を
保存・展示している。

@武田信玄の雄図
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(★長篠城祉史跡保存館の武田信玄)
 山内館長より写真の許可をいただいた。

A長篠の籠城
・奥平信昌の陣太鼓
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B鳥居強右衛門の勇気
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C設楽原の決戦の前夜

D設楽原の決戦


E長篠の戦いと鉄砲
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F長篠戦いとその後

Gジオラマ
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H参考品・・・鎧など
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I資料館の山内館長
・私「群馬の出身の武将が多く戦死してますが、
   データはございませんか。」
・山内館長「ないです。」
・・・・(中略)・・・
・山内館長「群馬に何度か行ったことがあります。
  箕輪城・鎌原城・内藤昌豊の善竜寺など・・」
・私「箕輪城のボランテティアガイドです。」
・山内館長「そうですか。あつ、そうだ。
  斉藤・・・斉藤美由紀さんが熱心に訪ねて
  来られました。4回位来たかな?」
・私「山内先生・・、斉藤さんは箕輪城のボランテ
   ィアガイドの会で一緒です。」
・山内館長「先生って言わないで下さい。
   前館長:丸山(彭)先生には遠く及ばない。」
・私「斉藤さんには、来週の岩櫃城の探索会で
   たぶん会います。」
 ★後日、斉藤さんは岩櫃城探検隊のメンバーに
なっていた。司会の担当だった。
 ・・・(中略)・・・
・私「主催者はここで死んだ根津一族の末裔です。」
・山内館長「岩櫃城に行ってないから、いつか
  いきたいなあ。」
・私「群馬の山城の2〜3番目には入るでしょう。
  凄い城ですよ。」
・・(攻略)・・

J史料類もここで入手。
  @ガイド「長篠の戦い」馬場高夫著 ¥500?
  A井伊谷三人衆・・・1000円
 ★私「井伊直政は箕輪城に8年いました。
  この次、井伊谷城に行くつもりです。」
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  B内藤昌豊とその子孫・・・1000円
 ★私「内藤昌豊は箕輪城代で武田16年支配のうち、
  8年いました。本当は善竜寺近くの保渡田城という
  所に住んでいました。たぶん、土屋昌次もここに
  いたと私は思っています。・・倅のまさあき=昌に
  月って書いて、まさあきと読ませています。正明は
脇坂、??いや、脇・・跡部勝資の息子で、内藤家に
養子に行きました。武田支配最後の箕輪城城代です。」


◆◆後日の調べ ◆◆
 内藤昌豊の養子・・有力説は、「内藤昌月は元高遠城
 の保科正俊3男である。」
和田業繁の養子・・内藤信業は跡部勝資の長男だった。

 ★しまった。嘘扱いた。山内館長、ご免なさい。



【2】長篠城
奥平貞昌以下500の城兵が武田軍15000を相手にして
援軍の到着まで持ちこたえることができたのは、長篠城が
豊川と宇連川に臨んだ崖の上という天然の要害堅固の地に
立地していたためである。
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@本丸堀
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A本丸入り口
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B本丸土塁
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C野牛郭
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D本丸から見える武田軍の砦群
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E鳥居の磔
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F不動滝

G本丸碑
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※5月の連休には長篠合戦祭りが催されるそうである。
 火縄銃実演が見たいな。
 

H館長:山内氏に報告 
「結構、群馬県人いましたよ。6人か8人・・。」
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 (★長篠の戦い・・ガイドブックより)


★明日は、長篠の戦いか岩瀬忠震か?・・・

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