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zoom RSS 箕輪初心●岐阜の城8−B『岩村城の女城主=信長の叔母なのだ。』

<<   作成日時 : 2012/10/25 07:09   >>

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岩村城の女城主は、織田信長の叔母だった。武田信玄の
家臣:秋山信友が妻にしたのだ。岐阜県恵那市岩村町に
ある。岩村城は2007年に日本城郭協会が選定した日本
百名城の一つである。日本で一番高い標高721mにある。
天守閣などは残っていないが、石垣は見事で、一見の
価値がある。今回は岩村歴史資料館から徒歩で登城した。

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◆◆ 箕輪初心●【岩村城1回目紅葉写真集】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_21.html

◆◆ 箕輪初心●【岩村城2回目御殿〜二の丸】 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201210/article_23.html



★天正元年(1573)、武田信玄の家臣:秋山信友が岩村城を攻
撃した。城主:遠山景任を亡くし未亡人となっていた織田
信長の叔母の修理夫人(女城主)が織田信長の5男:御坊
丸を養子として守っていた。岩村城がなかなか陥落しそう
もないので、秋山信友は一計を巡らした。密使を送った。
「@私=秋山信友と結婚すること、A城を明渡すこと、
 B御坊丸を養子として家督を譲ること、〜〜〜としてはど
 うだろうか?」
女城主も「最後まで岩村城を守ることが出来ない。」と考え、
秋山信友との結婚を承諾した。家臣や領民を守るため、
政略結婚の道を選んだのだった。
しかし、秋山信友は、織田信長の叔母と結婚したことを、
主人の武田信玄に怪しまれると思い、B7歳の御坊丸を甲府
に人質として送った。
 
武田信玄は、岩村城攻略に御機嫌だった。武田の美濃攻め
の勢が強くなっていったからである。
 織田信長は怒りまくったが、近畿攻略に追われていたので、
そのまま放任せざるをえなかった。しかし、織田信長は岩村
城の近くの可児などの城に兵を送り、密かに岩村城の奪還の
期を伺った。

 天正3年(1575)3月、長篠の戦で武田勝頼の軍が敗戦した。
武田が衰退の兆しが見えた
織田の勢力が優勢になった。
 
 6月、織田信長は岩村城に嫡子:織田信忠を大将とする軍勢
を送った。
 織田信忠の大軍は数日間激しく攻撃した。
しかし、岩村城の
秋山信友の兵もよく防戦した。
持久戦となって4ヶ月が過ぎた。
10月、岩村城内の食糧が乏しくなってきた。
 武田の応援もなく、ついに秋山信友の岩村城は陥落した。

 
 織田信長は、秋山信友・修理夫人=織田信長叔母らを
逆磔にした。

 この時、秋山夫人は泣き悲しみ、
「我れ、女の弱さのためにかくなりしも、叔母に非道をなすは、
 必ずや、因果の報いを受けん」
と絶叫しつつ果てたという(伝)。
 

・天正10年(1575)6月2日 織田信長が明智光秀に本能寺で
 殺された。・・・7年後のことであった。
因果応報ってとこか?




本丸の回りを一周しから、本丸現物だ。

K六段壁
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●表門=本丸階段
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L門
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Mうずみ門
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○二の丸の分岐
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○本丸下の石垣
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○出丸からの石垣景観
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O出丸・・・現駐車場&トイレ
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P南曲輪
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空堀が2つあった。
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Q東曲輪から本丸へ
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R本丸門
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N本丸
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●本丸井戸
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○看板
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○南西角から出丸を望む。
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○本丸景観
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岩村城はやっぱりすごい城だった。
見所看板が素晴らしい。 



◆◆ 岩村城の歴史 ◆◆
・文治元年(1185年)源頼朝重臣:加藤景廉が遠山荘地頭に
          任命。加藤景廉の長男:景潮が岩村に移り、
        加藤の姓を遠山に改め、以後遠山氏が代々居城。
・天正元年(1573)武田信玄の家臣秋山信友がに岩村城を奪取し
         入城。
         織田信長の叔母さんを妻にしたのだ。
・天正3年(1575) 秋山信友が織田軍に敗北。
        城主は川尻鎮吉(秀隆)と森蘭丸、森長一、
         森忠政の森三代、田丸具忠
・慶長5年(1600)関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏
        →松平家乗(大給松平家)が城主。
・江戸時代    大給松平氏二代
        →丹羽氏五代
          →大給松平分家の松平氏七代   
  城郭は中世城郭を近世城郭へと修築し、
  本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪など
  が設けられ、丸と曲輪は石累や自然の断崖をもって
  区画され、要所に櫓、塀、城門が構えられた。
・明治維新により廃城。
・明治6年(1873年)に取り壊された。
 (★岩村町教育委員会 岐阜県教育委員会 の説明板から)





★明日は、岩村城の城下町かな?

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箕輪初心◆岐阜:重伝建『岩村城下町』&恵那観光
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