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zoom RSS 箕輪初心●神奈川:【青木城】&神奈川宿 

<<   作成日時 : 2012/10/11 19:36   >>

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京浜急行の神奈川駅を降り、「神奈川宿歴史の道」の
解説パネルをじっくり見た。駅前のお店のおじさんが
「あそこの権現山は神奈川台場の建設のため削られた。
さらに明治時代の鉄道建設により切通しが作られ、
東海道も分断されたためだ。それで、門前近く
に青木橋が架けられた。坂本龍馬のおりょうさんの
働いていた料亭もあるよ。」
と教えてくれた。東海道も教えてくださった。

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【1】神奈川宿
神奈川駅前の東海道を通り、幸ヶ谷公園に行く。
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@権現山城=幸ヶ谷公園
大手口だろうな?
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土塁かな?
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・本郭・・・辺りの桜の名所である。
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・本覚寺=青木城が見えた。
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低い所を削って、鉄道を通したことを
 考えると、やはり、一城別郭だ。
現高島台から幸ヶ谷公園(権現山)にかけて続いていた
丘は、東海道と神奈川湊を見下ろす交通の要衝である。
戦国時代、隣接して権現山城・青木城が造られた。
青木城・権現山城の築城期、築城者とも不明である。
青木城と権現山城は一城別郭の城であったようである。
権現山の合戦後には、青木城の側の方が重視されて
中心郭となって、青木城と呼ばれるようになり、一城別
郭のようになったのであろう。


 それにしても、主郭がでかすぎる。
 ここは、砲台跡だったのだ。

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しかし、遺構は見られない。
★形状から、本郭・二の郭などを想像するしかない。
権現山合戦の看板が立っていた。
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下には、源頼朝の建てたらしい宮があった。
・二の郭?
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A普門寺=フランス領事館
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・京浜急行の神奈川駅前に着いた。
・青木橋を渡った。
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・国道1号を渡った。

B本覚寺(ほんがくじ)
・本覚寺山門脇のスダジイとイチョウの樹影が見えている。
★青木城がメインである。
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・坂道を上るにつれて右の眼下の青木橋やJRと京急の線路、
京急の神奈川駅、幸ヶ谷公園=権現山砦・ビル街へと
視界が広がってゆく。
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・アメリカ領事館の石碑
アメリカ総領事ハリスが横浜開港の頃には袖ヶ浦と
呼ばれる入江を港の立地の理由であったと言われる。
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アメリカ領事館として使われていた時期には、境内の
松の木に星条旗が掲げられ、山門は白いペンキを塗ら
れたという。今でもうっすらとその白いペンキの跡を
見ることができる。生麦事件の際に負傷した2人の
イギリス人が逃げ込み、治療を受けた寺でもある。
治療に当たったのはヘボン博士であった。
(★横浜開港資料館)

・スダジイ・・・樹齢200年ほどの古木。
・イチョウの古木・・樹齢200年前後。
・境内は広々としている。
・寺の西の斜面に墓所がある。
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・和尚さんの話
「現在の本覚寺周辺が城跡と考えられている。」
線路や寺院、墓地、宅地などの開発により、地形が大きく
変化している。東隣の権現山城とはもともと地続きで、
現在線路となっているあたりに堀切を設けて両城は
一城別郭であったのだろう。低い所に駅や線路を敷く
のは、当たり前だろう。
本覚寺の和尚さんによれば、
「寺の背後は青木砦だったらしいです。多米の本拠は
三ツ沢でここは出城だったらしいです。
明確な遺構はありません。」
全く、遺構がまったく見受けられない
更に、和尚さんにお話を伺った。
「本覚寺は横浜開港当初にアメリカ領事館が置かれた。
当時山門はペンキで白く塗装されていたという。
この山門は後震災・戦災を免れて現存している。」


 @井戸・・青木城唯一の遺構?
   現在はポンプ汲上げ式である。
 A墓地の一部は腰曲輪だった可能性がある。
 B墓地の一番上の住宅は本郭であろう。
 C周囲の道路は空堀跡であろうか?

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▼下山して、東海道の神奈川宿に戻った。
国道脇の歩道には「神奈川宿歴史の道」を示すタイルが
設置されている。
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C料亭1
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D料亭2=田中屋
 「坂本龍馬の妻:おりょうが働いていた所。」
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E西に木戸番所
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★神奈川宿の面影や横浜開港期の歴史を伝える場所も残
っている。「神奈川宿歴史の道」が整備されているそうだ。
東は新町の神奈川通東公園〜西は台町の上台橋まで、
4km程あるらしい。
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【2】神奈川宿の歴史
・奈良時代 東海道として、道があった。
・平安時代
・鎌倉時代 鎌倉下つ道の街道沿いであろう?
・嘉禄2年(1226) 臨済宗:宗祖栄西が本覚寺を創建(伝)。
・室町時代
 三河の土豪:多米元益は、伊勢宗瑞(北条早雲)に従った
 伊勢七騎の一として活躍した。
・明応4年(1495)?文亀元年(1501)
伊豆の伊勢平氏流伊勢新九郎盛時(=北条早雲)が
小田原城を大森藤頼から奪った。
 多米元益は小田原城奪取でも先鋒を務めた(伝)。
 小田原城の大改修工事で拡張した。
 小田原城を拠点としたのは息子:北条氏綱
  が最初であったされている。
北条早雲は、扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立を利用して、
伊豆を平定し、小田原城をも手に入れた協力的だった
扇谷上杉氏から独立した方向へ進もうとしていた。

・永正4年(1507) 関東管領山内上杉顕定の弟で、越後守護
だった上杉房能が、守護代:長尾為景(上杉謙信の父)に
八海山の麓で殺害された。
上杉顕定は一時、長尾為景を越中に敗走させた。
翌年になると為景は力を盛り返して反撃に転じ、
顕定は討死してしまう。

・永正5年(1508)北条早雲は越後栖吉城:長尾為景
 &武蔵:鉢形城:長尾景春(伊玄)と結んでいたため、
 これを契機として両上杉氏に反旗を翻した。

・永正7年(1510)6月権現山の戦い
北条早雲は、扇谷上杉朝良の被官:上田政盛を早雲側に
寝返らせた。
 上田政盛が権現山で蜂起させた・
北条早雲は、平塚の住吉城で呼応し、扇谷上杉領を脅か
す打ち込む形をとった。

ところが、扇谷上杉朝良は、今まで対立していた山内上杉
顕定の養子憲房と和解する。
そして両上杉氏は2万余の軍で、権現山城を包囲した。
7月19日、10日余の激戦の末、
権現山城を落としてした。
権現山城に籠もった上田蔵人政盛は
「本覚寺の地蔵堂をば根城に拵らへた」とある。
本覚寺山の根城は、藤田虎寿丸により攻め落とされた。

一帯が上杉氏と上田政盛との戦場となったため荒廃。

北条早雲の領土拡大は、大敗北によって休止した。
北条早雲は、この後、両上杉氏と直接対決を避け、
三浦半島に勢力をおく三浦一族を攻撃するようになる。

権現山城が後北条氏のものになると、いつの頃からか、
後北条氏の七家老の一人多米氏のものとなり、西の青木側
が中心郭として拡充された。

★多米元益興は、北条早雲(伊勢宗瑞)の旗揚げ時から従っ
てきたいわゆる草創七家老の1人とされる。
多米家の菩提寺は、三ツ沢の豊顕寺である。
(★本覚寺和尚さん)
・永正3年(1496) 多米元益は没。
・永正15年(1518)?永正16年 北条早雲が死去。
・大永年間(1521~27) 後北条氏の重臣:多米元興が
          青木城主説は少数説のようだ。
  ★個人的には、当時、権現山が青木城の主郭の
   可能性があったと推測している。
・天文元年(1532) 本覚寺が曹洞宗の寺として再興された。
・大永4年(1524)〜北条早雲の嫡男:北条氏綱は武蔵国
 征服のため、武蔵の上杉氏の居城:河越城に侵攻、
 4度にわたる争奪戦。
◎天文年間(1532〜55)多米元興or子の多米周防守が、
  青木城を構えて居城とした説が有力説。
・天文15年(1546)5度目 「河越の合戦」=夜戦
  古河公方・山内上杉憲政・扇谷上杉朝定 
     VS 
  北条氏康
 多米周防守元忠は北条氏康軍師&氏康の親衛隊5つの
  内の一つに編入。
 多米周防守元忠が北条軍の4部隊のうちの1つを率い
     て活躍。
 →北条氏康から褒美として、北条家の家紋三鱗を賜る。
  @川越城の守備を固めたこと、
  A北条氏康の部隊を法螺貝を吹いて引き戻させたこと
 *長野吉業(業政長男)が負傷→死亡(★群馬県史他)


・天文15年(1546)「河越夜戦」。
 関東管領:上杉氏を駆逐
 関東の政局を決定した。
 北条氏康の軍師として河越夜戦で活躍した多目元忠とは
 同家ともいわれるが、両者の関係は明らかでない。
・本覚寺山の城に多米元興が入った(伝)。
・青木城は、元興以降も多米氏の居城であったと思われる。
(★『鎌倉九代記』ほか)
青木の領主として多米新左衛門がいる。
(★『小田原衆所領役帳』)
・永禄12年(1569) 武田信玄が小田原へ侵攻。
 青木城主:多米周防守は、青木城を捨て、北条氏康
 の妹婿:吉良左兵衛佐の蒔田城を守護した。 
・元亀2年(1571) 武田氏の駿河からの進軍を防ぐなど、
         北条軍の中核として各地を転戦。
・天正5年(1577) 多米元興は没。
     →多米元忠が多米家を継ぐ。
      上杉謙信の関東侵攻
     →多米元忠は上州平井城と西牧域
      (群馬県多野郡藤井の塁)城主を兼任。
  ※青木城には、山中主膳正(後北条家二十将の一人)を
     城代に配置。
・天正16年(1588)箕輪城主多米出羽守平長定
      (★多目周防守元忠の子)
       +大谷帯刀左衛門 (★下仁田町史)
・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原征伐→
 @多米元忠が西牧砦(群馬県)で討死。
           (★上毛古戦記:小幡記)
  →山口総衛門が青木城へ伝令。
   →元忠の子左近(18歳)は家臣栗田氏一族と自決?
           (★佐奈山文庫HP)
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 A多米周防守長定は、御幣山砦の守将:大谷帯刀
  左衛門公嘉と共に上野西牧城に籠って戦い、討死した。

  北条氏の滅亡に伴って廃城になったと思われる。

 B箕輪城主:多米出羽守平長定が山中城(三島市)で討死。
 ★私見・・多米出羽守平長定は、小田原の最重要防御の
  地山中城(静岡県三島市)に応援に行った?
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 (★静岡県三島市の山中城三の丸の
   宗閑寺の看板の写真)

群馬下仁田町の物語山のメンバ岩の伝説
天正年間(1573〜1590) 多目周防守長定は西牧の
  横間の「幽崖城」(=西牧城)に在城。
天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻めの時、
     北国勢の前田利家・上杉景勝は碓氷峠を
      越えて上野に入った。
@松井田城コース→箕輪城コース
   (上杉景勝の真田昌幸軍が受け取り) 
A国峰城コース・・・・ 
B西牧城コース 
「幽崖城」を攻めたのは、松平康国で、多目周防守
   長定は奮戦したものの城から逃亡した。
 ・・・長定がふと見ると岸壁があり、そこ下には
 藤のつるが伸びていた。つるを伝わって岩の下まで登った。
 そして、登りきると、つるを切った。
  翌日、そこからおりられず、
 小田原城の方を向いて、腹を切った。
 ・里人は、この悲惨な話から「物語山」を呼ぶようになった。   
    (★下仁田町史「町に残る伝説」より)


・江戸時代・・・東海道神奈川宿として発展


・安政5年(1857)遣米使節団が出航した。
ボーハタン号&咸臨丸である。
日本とアメリカ合衆国の間に日米修交通商条約が締結された。
※条約は関税自主権がない不平等条約だった。
この条約によって下田、函館に加えて、兵庫(神戸)、新潟、
長崎、神奈川(横浜)の4港の開港が約束された。

アメリカ総領事:ハリスは神奈川宿(現在の京急神奈川駅・
東神奈川駅付近)前の港の開港を想定して、神奈川宿の
本覚寺にアメリカ領事館(青木城=本覚寺)領事館を置いた。

普門寺には、フランス領事館があった。
江戸幕府は神奈川宿での外国人と日本人とのトラブルを恐れ、
当時小さな漁村であった横浜を「横浜も神奈川の一部である」
として強引に推し通した。
当時の横浜の沖合は水深が深いので港に適していた。
横浜開港に当たって運上所(=現神奈川県庁)先の海岸
にふたつの石組み突堤が造られた。
東側突堤の名残が大桟橋の「象の鼻」である。

・安政6年(1859)陰暦6月2日(太陽暦暦7月1日)
横浜が開港した。

※案の定、生麦事件が起こった。
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★明日は、スカイツリー・亀有・浅草である。

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★長篠城&長篠の戦いがメインの旅で設楽原歴史資料館で 岩瀬忠震(ただなり)に興味を持った。幕末の外交官= 阿部正弘時代の外国奉行として、アメリカ領事:ハリスと 日米修好通商条約に調印した。続いてオランダ・フランス と安政の五ヶ国条約をすべての調印者となった。しかし、 井伊直弼の安政の大獄で免職させられた。岩瀬忠震が外交 官として活躍した時期はわずか5年であるが、日本にとっ て外国の植民地支配を回避した最も大切な5年であった。 ★う^ん、その後、井伊直弼は小栗上野介を登用し... ...続きを見る
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