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zoom RSS 箕輪初心★【織田信長B桶狭間〜清洲同盟】

<<   作成日時 : 2012/06/03 05:52   >>

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【3】桶狭間の戦いから清洲同盟へ
・永禄3年(1560) 桶狭間の戦い 26歳。
※今川義元の動き・・未だ、尾張は不安定と見ている。
 5月10日(6月3日・・今川義元は先方隊として、井伊直盛
            ・松平元康(徳川家康)を三河に派遣。
 5月12日(6月5日)
今川義元は大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して
 東海道を西進。藤枝泊
5月13日(6月6日) 藤枝→掛川城泊
5月14日(6月7日) 掛川→引馬城泊
5月15日(6月8日) 引馬→吉田城(豊橋城)泊
5月16日(6月9日) 吉田→岡崎城
 5月17日(6月10日) 岡崎→池鯉附城
今川軍は、尾張の沓掛城に入った。(★ウキペディアの説)
5月18日(6月11日) 夜
松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城
に兵糧を届けさせた。
今川軍は、尾張の沓掛城に入った。(★帝国書院の説)
◆今川軍の前哨戦・・織田の丸根砦・鷲津砦攻撃。
5月19日(6月12日)
03:00頃
○今川の丸根砦の攻撃
  大高城の鵜殿長照2000・松平元康1000で
  →丸根砦への攻撃開始。
  丸根砦の織田軍:佐久間盛重420+α=約500名は城外で
  白兵戦を展開。
  結果・・大将:佐久間盛重は討死。
 ○今川の鷲津城の攻撃
  大高城の朝比奈泰朝・井伊直盛2000で鷲津砦攻撃。
  織田軍は篭城戦。
  結果・・飯尾定宗、織田秀敏が討死。
     飯尾尚清は敗走。
     一定の時間稼ぎには成功した。 
 今川義元は丸根砦、鷲津砦の攻略に気を良くした。
 今川軍は、大高城周辺の制圧を完了した。
 今川義元が率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に
  向かって西に進んだ。

織田家内部では清洲城に篭城か白兵戦かで揉めた。

織田信長の反応→桶狭間への出陣前
 @今川本軍の沓掛城の落城・・・反応なし。
 A今川軍の丸根砦・鷲津砦攻撃開始の報を受けた。
 ・・・幸若舞「敦盛」を舞った。
「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 
 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」。
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 (★清洲城の画像より)
昆布と勝ち栗を前に立ったまま、湯漬け
 (出陣前の米飯に熱めの湯をかけて食べた。)
 ★たまには、縁起を担いだ。都合のいい野郎だ。
 出陣。

04:00頃 
  @清洲城・・・出陣の身支度を整えた。
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  織田信長は居城:清洲城より出発。
   小姓衆5騎のみだったという。(★清洲城博物館)
  ★織田軍の中の反逆者を恐れたからである。
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08:00頃 A熱田神社に到着。
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     軍勢を集結。100人になっていた。
      熱田神宮に戦勝祈願を行った。
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  ・清水社
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★次第に集結。
    この時点で、3000の軍勢説が強いが、
    多すぎるのではないだろうか。
       
09:00頃 熱田神宮発→鎌倉上街道を東進。
津島・・・服部小平太(※今川義元に一番槍)が合流。
日光川
    勝幡城(※織田信長が生まれた場所)
    美和(現あま市)・・・蜂須賀小六・福島正則・
豊臣秀次・溝口秀勝などが合流。
(★長屋良行説採用)

09:50頃 B 丹下砦(緑区鳴海町)
 
10:00頃 C善照寺砦(緑区鳴海町)
   織田信長軍は鳴海城対策の善照寺砦に入った。
   約2,000〜3,000人といわれる軍勢を整えた。
  (※善照寺砦で4,000人の軍勢を整えて出撃。
ウキペディアの説)
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11:00~ 善照寺砦(緑区鳴海町)発
   織田信長は善照寺砦に佐久間信盛の軍の約500を置いた。
   織田信長は2000の兵で善照寺砦より出撃。
   鳴海から見て南東の桶狭間の方面に進軍した。
  (※中嶋砦まで進軍した説:資料もある)。
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12:00頃 D中嶋砦
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   前衛の佐々政次・千秋四郎ら約300の軍は
   織田信長の出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛
   に攻撃をしかけた。
   結果・・佐々、千秋らが討死に。
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13:00前頃 E左京山途中
  突如豪雨が降り、視界が悪くなった。
★どしゃ降りだったらしい。(★地元の三代さん)

13:00過ぎ、雨が止んだ。
 ●桶狭間の戦い
  
◆◆ 桶狭間の今川義元の本陣の説 ◆◆  
 @通説・・・桶狭間古戦場伝説地=7ッ塚
     迂回説=従来の説。
善照寺砦→鎌倉街道→有松駅&競馬場前駅の
間→高徳院前
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  A有力説・・桶狭間山
     迂回説に否定的な見解が主流である。
     善照寺砦→中島砦(鳴海駅近く)→左京山駅近く
→桶狭間山(高徳院の500m先の山である。)
   ※信長公記に桶狭間山が出てくるからである。     
B少数説・・高徳院境内説。
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C少数説・・幕山=今川家家老:松井宗信の死んだ場所。
  ★結局、不明のようだ。
  D田楽狭間説
  


桶狭間山・・・
織田信長軍は今川義元の本隊に接触、攻撃を開始した。
  今川軍の本隊(今川家当主:今川氏真&実父:義元)は
  5,000〜6,000人ほどに過ぎなかった。
  大部分は戦闘に不慣れな寄せ集めの兵であった。

    (★ボランティアガイドの三代氏)

  織田信長軍の精鋭2,000人が突撃した。
  織田軍の猛攻によって今川本陣は大混乱に陥った。

  今川義元は退却を命じた。
  しかし双方の大将の乱戦となっていった。
  織田信長の親衛隊が今川義元の旗本部隊に突入した。
今川義元への一番槍は服部小平太であった。
毛利新介が大将:今川義元を討ち取った。
  
  ※今川義元の死
 今川義元の墓(★七ッ塚)
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今川氏真が退却命令を出した。
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 ○織田信長は熱田神宮に塀を築いた。
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  →桶狭間で休息中の駿河:今川義元の大軍25000を、
  たった2000の兵で奇襲攻撃し、見事に勝利。
  →織田信長の武勇は全国に広まった。


  ※織田信長は今川義元の驚異がなくなると、
6~8月には、美濃攻めを敢行した。

稲葉一徹・氏家卜全・安藤守就に負けた。

しかし、清洲から美濃は遠すぎるので、独断で
小牧山に新城を築くべく、丹羽長秀を普請奉行に
任命した。

・永禄4年(1561) 斎藤義龍が急死。嫡男:斎藤龍興が継ぐ。
 ●森部の戦い
織田信長は美濃に出兵し勝利。
 ●十四条の戦い 
斎藤龍興の勝利

・永禄5年(1562)清洲同盟
 ●織田信長は今川氏の支配から独立した三河の松平元康
  =徳川家康と清洲城にて同盟を結んだ。
  清洲同盟は小牧・長久手の戦いまで維持された。
  ※三河の松平の離反等で、今川氏直は勢力衰退。
   
・永禄6年(1563)30歳。 小牧山城が完成。→小牧山城4年
  織田信長軍・・・ 永楽銭=永楽通宝の旗印

・永禄7年(1564) 31歳 清洲城から小牧山城に本拠を移した。
   美濃(岐阜) に本格的な侵攻。

◆◆ 織田信長@尾張のうつけ者時代 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_1.html

◆◆ 織田信長A桶狭間前哨戦 ◆◆
http://53922401.at.webry.info/201206/article_2.html





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