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zoom RSS 箕輪初心●群馬【山上城】&『山上多重塔』

<<   作成日時 : 2012/05/20 06:14   >>

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【1】山上城は山上五郎高綱によって築城され、戦国時代末期
に武田勝頼に攻められ廃城となりました。丘城として遺構がよ
く残されており、本丸・二の丸・三の丸跡が公園として整備さ
れ、花の名所としても知られている。
(★新里村パンフレット)
【2】山上多重塔は延暦20年(801)道輪によって建てられた
供養塔である。塔には安楽と平和を願う45の文字が刻まれ
ている。群馬の古碑では、4番目に古い。

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【1】山上城
■訪問記・・・平成21年(2009)11月11日
○前橋の上泉城→上泉伊勢守の墓→郷蔵・・・
 大胡城→女渕城→膳城→桐生市新里町「山上城跡」
 →山上多重塔→群馬昆虫の森→相澤忠洋記念館。
○現在は山上城跡公園だ♪・・・★初めて訪問だ。

@疑似楼台

A城の構造石碑
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山上城由来
山上城は鎌倉時代から流行した館造りの本丸を中心として、
同様の長方形の郭を組みあわせた南北約650m、東西約220m
の 細長い形状の丘城である。(★案内碑より)

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城の構造は並郭構造である。
北から南へ笹郭・北郭・本丸・二の丸・三の丸・南郭と一直線に
並んでいる。二つの堀切りを隔てて、高さ約5mの物見台を持つ
南郭へ繋がっている。 空堀・帯郭・腰郭が渦状にめぐっている。
さらに、東に蕨沢川、 西に山田川の侵食による谷が堀の役目を
果たしている。川や谷などの自然を巧妙な手法によって築城さ
れた丘城であることがわかる。
 
B山上城跡(県指定史跡)
この城は、田原藤太といわれた藤原秀郷の子孫である
五郎高綱が山上の姓を名乗り居城とした。
高綱の子、太郎高光は源頼朝に仕え、上杉氏が関東管領の頃は、
由良氏・薗田氏・桐生氏とともに東上州四家として、
重要な役割を果たしていた。
北条・武田・上杉氏などの群雄が割拠した戦国動乱のなかで、
戦国時代末期の天正18年(1580)廃城となった。
〜〜〜〜 (案内碑)

C大ムカデと大蛇・・・
画像

伝説・・・「昔昔、赤城山の神様の大むかでと
日光男体山の神様の大蛇とが争いました。」
と、ある。
大昔、日光戦場ヶ原で繰り広げられた神様の戦い伝説である。 
★バス旅行で金精峠付近で4〜5回、聞いたことがある。

D三の丸・・・広い芝生の公園になっている。
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 三の丸から二の丸方向を望むと、 
 緩やかな丘陵にローラー滑り台やロープなどの遊具がある。
  太鼓橋や庭園などをが整備してある。
 
E山上城井戸
山上城跡公園整備の発掘調査により発見された第一号井戸は、
地山のローム層を直接掘り込んで構築されている。断面形態
がラッパ状に上が開く、地山井筒朝顔型をとり、深さ8m、
口径4m、底径1mの規模を有する。埋土状態は地山の黄色
ロームが多量に混入しており、人為的に埋められているもの
と推定される。出土遺物に五輪塔や石臼、カワラケ皿等があ
り、堀削埋土の時期判定の根拠となると考えられる。

E二の丸    

F本丸

G北郭

H笹郭

●新里町郷土文化保存伝習館
 ★パンフレットをいただいた。

●城下町・・・元町・鍛冶屋などの地名が残っている。 


◆◆ 山上城の歴史 ◆◆
・平安時代・・・藤原鎌足の子孫→・俵藤太=藤原秀郷→足利氏
 ※源氏系の足利氏ではなく、藤原秀郷→足利氏である。
 足利高綱は平泉藤原秀衡の4代前の兄弟から別れている。
足利成行→足利俊綱の弟:足利高綱が
  山上高綱を名乗るようになった。
  山上高綱の居館は竜奥館と呼ばれていた。
        城址東方の善昌寺付近らしい。
 以後、山上氏歴代の居城となった。

・元暦2年(1185) 山上高綱の子:太郎高光の名がある。
・建暦3年(1214) 山上高綱の孫:四郎時光の名がある。
・建長3年(1251) 山上弥四郎秀盛の名がある。
御家人として活躍している。(★『吾妻鏡』)

・元弘3年(1333) 大坂の千早城攻め
   鎌倉幕府方で新田義貞や山上太郎跡が参戦。

・南北朝時代  一族の分裂
   南朝側・・・新田義貞に従った山上六郎衛門
VS
   北朝側・・・足利尊氏に従った山上十郎太郎

・観応2年(1351)、観応の擾乱 笠懸野の合戦
  足利尊氏方・・山上十郎公秀・同族の大胡氏など
  VS
  弟:足利直義方・・・桃井直常や長尾氏など。
  →合戦の結果・・山上公秀・大胡方の敗北。
  →足利尊氏方の宇都宮氏綱が上野に進攻。
   最終的には足利尊氏方の勝利。
   弟:足利直義を自殺に追い込んだ。

・応永年間(1394〜1428)  
  山上氏は関東管領上杉氏に従っていた。
  山上氏・由良氏・薗田氏・桐生氏は東上州の四家として
  重要な役割を果たしていた。

・長享元年(1487)~永正2年(1505) 長享の乱
山上氏は上杉方となった。古河公方側についた佐野氏に
よって山上城を落とされている。
由良氏の支援で奪回。
  山上氏は由良氏の影響下に入った。

・天文10年(1541) 厩橋長野氏と由良政繁が対立。
    山上氏は厩橋長野氏側へと離反。

・天文15年(1546)4月20日 河越夜戦
上杉憲政の武将の一人として山上氏の名前がある。
 河越城を攻囲していた関東管領山内上杉憲政・
  扇谷上杉朝定・古河公方足利晴氏が
  北条氏康に敗れて、扇谷上杉氏が滅亡。

・弘治元年(1555) 北条氏康は上野に侵攻。
北条氏照・北条氏邦が大将だった。
   山上城が落城。・・・支配不明。
   →城主:山上氏秀(道及)は下野:佐野氏へ逃走。
山上氏秀は佐野氏の家臣となった。
   ※山上氏は抗争のなかで没落していった。

・永禄3年(1560) 上杉謙信の第一次関東出兵。
    山上城は落城。→後北条氏配下が逃走。
    上杉謙信の城は大胡民部佐衛門に預けになった。

※永禄期・・・北条、上杉、武田との抗争の舞台となった。
    山上城も城主もめまぐるしく変遷した。

・天正2年(1574) 上杉謙信は関東経営の要衝であった武蔵
    羽生城を焼き、破却して撤収した。
   木戸忠朝以下城兵もろとも上野膳城(前橋市粕川町)及び
   山上城へ引き取らせ、関東攻略から撤退した。

・天正3年(1575) 長篠の戦い(愛知県)
 ※武田信玄が敗戦〜〜〜→転落の一途。
  ◆木部範虎は、上野東部戦線に参加中。
 (現前橋城)→大胡城→女ヶ淵城→山上城→桐生城

・?   後北条氏の侵攻      
  佐野氏が後北条氏側につくと、
     山上氏秀は武田信玄についたらしい。
  
・天正8年(1580) 武田勝頼が上野に侵攻。
   大胡城・山上城も武田氏の支配下に置かれたのでは
   ないかと思われる。(★ウキペディア)
   武田勝頼(自刃2年前)に攻められ廃城となった。
(★案内碑)

・天正10年(1582)?太田金山城の由良国繁の持ち城と
            なった。

・天正10年(1582) 滝川一益の侵攻
箕輪城を人質の城とし、厩橋城に居住した。
山上氏秀は滝川一益に仕えたらしい。

6月2日 本能寺の変・・・織田信長死亡
    
   神流川の戦い・・・滝川一益 VS 北条氏邦
滝川一益の敗戦。・・・清洲会議に遅れた。
北条氏邦が上野に侵攻。鉢形城主&箕輪城主

・天正12年(1584)
最初に北条氏政が由良・長尾に使者として派遣したのが
  山上郷佐衛門という者であった。(★「関八州古戦録」)
北条氏政は、由良国繁の子や弟:長尾の両氏を小田原
  に人質として送らせ、金山城:由良国繁を攻撃した。   
  →金山城が北条方の城となった。
★山上氏は山上城を安堵された可能性もある。

・天正18年(1590) 豊臣秀吉の小田原攻撃
   北条氏が滅亡→山上城も廃城。


【2】山上多重塔(国重文)=塔婆(石造三層塔)
桐生市新里町山上2555
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○「塔婆(石造三層塔)」
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○解説文の内容
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 延暦20年( 801)、道輪という僧侶が法華経を安置するた
 めに建立した石製の塔である。塔の四面には、朝廷・神祇
 ・父母・衆生の供養のために建てたとする旨の碑文が45
 字で刻まれている。
 塔は高さ1.85m、安山岩製の三層構造で朱塗りの痕跡が
 ある。塔身上部には経典を収めたとされる深さ20pほど
 の窪みがある。
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赤城山を望む。・・・「裾野は長し赤城山」
 雄大なビューポイントである。



★明日は、群馬県立こんちゅうの森かな?



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