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zoom RSS 箕輪初心★群馬の偉人【天明の飢饉&群馬bP豪商:加部安左衛門一族】

<<   作成日時 : 2012/03/26 06:55   >>

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上州の三大尽は@加部、A佐羽、B鈴木だそうである。
「加部一族は浮き沈みの凄い家系だ。勤勉で群馬bPの
豪商頂点からどん底→奮起して、超大金持ち・・極貧〜〜
の繰り返し〜〜。金がある人間の悩みかもしれない。」

桓武平氏の末裔は上総(千葉県)から上野(群馬県)に
移り住んだ。上野吾妻で「富澤」を名乗った。大戸三河守
の家臣から真田幸隆の家臣になっていた。4代からは、大
戸の関所の関守を代々務めていた。8代・9代加部安左衛
門は上野bPの豪商=大金持ちになった。浅間噴火の際の
救済に尽力をした。任侠:国定忠治とも懇意で、処刑当日
に、加部安に酒を一杯ご馳走したという伝説が残っている。
12代加部安左衛門は横浜開港などにも尽力した。嬬恋村出
身の中居屋重兵衛とも仲良くなった。俳句道楽で貧乏になっ
てしまった。子孫は東京に在住している。

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(★加部安左衛門:丸山不二夫著をベースに加筆。)
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★加部安左衛門の生家跡(東吾妻町指定史跡)
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★加部安左衛門の墓
大運寺にある。大運寺は天正年間に大戸村寺原から現在
の場所に移った。7代:加部安左衛門の寄進で大運寺は
荘厳な寺となった。本堂と庫裡は、平成2年2月に焼失
してしまったが、平成6年に再建された。

◆◆ 加部家の出自と歴代当主 ◆◆
上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左衛門を名乗る豪商がいた。
「加部安」と呼ばれて親しまれていた。
上州吾妻郡坂上村には、加辺家がある。藤原系の子孫である。
【0】先祖・・・
桓武天皇・・○・・○・・高望王・・・・○・・○・・○・
 ・○・・○・・○・・平忠常・・・○・
 ・上総一ノ宮城:平廣常・・12代略・・・
 富澤掃部介常久は上州に来た。 
富澤一族は、地侍の有力小名の結婚して、土着した可能性も
 ある。例えば、後の斉藤家家老→真田家臣になった富澤豊前
 守の先祖とか?・・・これは、推測の域をでない。

【初代】富澤掃部介常久
・永禄元年(1558) 大戸城主:大戸中務少輔の家臣となる。
・永禄3年(1560) 長尾景虎の第一次関東出兵
  大戸中務少輔は長野業政と同じ家紋で出撃。
 大戸十騎とある(★甲陽軍鑑)
大戸中務少輔の妻は、長野業政の娘である。
  大戸三楽斎の妻は岩櫃城主:斉藤憲弘の娘である。
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(★大運寺から大戸城=手古丸城を望む)
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 (★手古丸城&大戸城の間の土橋)
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 (★大戸城本丸の碑)

箕輪初心●「手古丸城=大戸城」・・・お城の好きな方へ
http://53922401.at.webry.info/201201/article_14.html

【2代】富澤内蔵介常堯(次男)
・永禄4年(1562) 武田信玄家臣:真田幸隆の侵攻。
  大戸城主を大戸氏から分家:浦野三河守となった。
  富澤内蔵介は浦野三河守の家臣。すなわち、武田信玄
  の家臣になった。実質は真田幸隆の支配下である。
  長野氏の鷹留城を攻撃に参加し、榛名町長年寺を放火した。
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  ★(★大戸西城から大戸城を望む。)
  裏山の大戸西城を守った可能性がある。


【3代】加部八左衛門重国
富澤内蔵介常堯の一人娘と結婚・・加部姓を名乗った。
  ★おそらく、長篠の戦いにも参加したはずである。
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  ★大戸が北条氏邦の支配・・・仙人隠れ陣城から、
   岩櫃城を攻撃の機会を狙っていた。
   富澤内蔵介常堯は、おそらく三島方面に逃げたのでは?


【4代】加部八左衛門重常
・寛永8年(1631) 大戸の関所が設置。
   ・・関守は加部・一場・堀口・田中一族であった。
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【5代】加部安左衛門重則
大戸宿を通る北国諸藩の荷駄数
    ・・中山道にひけをとらない。

@飯山藩・・・800駄〜640駄〜100駄
A須坂藩・・・380駄〜446駄〜200駄
B松代藩・・・2000駄〜・・天明は50駄
★碓氷峠はきつかったのだ。
 鳥居峠からの2コースは、結構、楽だった。

【6代】加部安左衛門重行


【7代】加部安左衛門重実
妻は折田軍兵衛の娘
   7代目の加部安が立派な人だった。財産を蓄えた。
   @農業・・・ 
   A酒造業を開始。
   B麻などの仲買。
    大戸→岩島麻の仲買い→大戸→中山道松井田宿 
     販売→ゲットした金で品物を購入。
    (★往復20里=80kmを歩いて金を稼いだ。)
B金融業・・・「麻&繭の手金貸し」=元手の金を貸し
     後で、物納させる方法・・農家が喜んだ。
   などもしてのだ。

【8代】加部安左衛門重実
   8代目も立派な人であった。
   父親の稼業を継いで、巨万の富を蓄えた。

・天明3年(1783) 浅間山大噴火
  鎌原村をはじめとして吾妻郡の村々は壊滅状態。
  財産を惜しまず、避難民の救済に当たった。
→川原湯村より下流の村=7ヶ村180余軒に
47両を寄付して救済した。
以後も・・・ずうっと、続けた。
 

・天明4年(1784)
冷害による凶作・・・援助。
 →大戸村など5ヶ村の483両を5年賦で貸し付け。
  須賀尾村・大柏木村など近隣にも援助。
  現中之条では、餓死者が88%〜95%になった。
加部安はここへも僅かではあるが、援助した。

 
 功績によって、幕府より帯刀を許された。

・天明6年(1786) 大洪水の時も避難民たちを救った。

・寛政8年(1796) 大戸村の大雲寺に寄進=100両?

○家族9人・下男9人・下女8人・他4人+馬7疋  


【9代】加部安左衛門信安・・2説
=伊能(いよく※上総の伊能忠敬のいのうではない。)
平治左衞の次男が養子となった。
(★ほとんどのHpは、松井田の儘田又兵衛の次男だった。)
※私は、丸山不二夫氏の「加部安左衛門」を採用している。

【10代】加部安左衛門兼重・・2説
 ※8代目の長男説・・・Hpなど
   学問&遊興を好み、吉原遊廓で豪遊していた。
   父親の残した財産も使い果たした。
※丸山不二夫氏説
・文化12年(1815)〜
  @足尾銅山の開発復興の立役者
  5000両のうち、1000両を寄付。
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A江戸城改築御用木材の最大立役者。

・文政6年(1823)〜船4隻 
   仁鳳丸・感徳丸・仁徳丸・加徳丸

・文化(1788)〜 文化のの凶作
お助け米だけでは不足した。加部安に援助依頼。

・天保(1830)〜 天保の大飢饉・・・嬬恋村方面から中之条方面に飢餓
   加部安が援助

・天保8年(1837) 幕府巡察使の休憩所

【11代】加部安左衛門重義・・2説
 @11代目は江戸で生まれ説→国定忠治の末期の酒伝説?
   郷里に戻って家業の建て直しを図った。
   侠客:国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時、
   最期に望んだのが、加部安が造った銘酒「牡丹」だ。
A11代目が松井田の儘田家の養子説(★丸山説)
使用人の不正等で家運が傾き始めた。挽回しようとし
たが、失敗して、吉原通いの日常になった〜〜〜〜。
金を使い放題使った加部安左衛門重義がは、経営不振
に陥り、特産物の商いをやめ、酒造業だけにになった。
家督は12代目の加部安左衛門嘉重に譲って、放蕩三
昧に終止符を打って、大戸に戻った。


【12代】加部安左衛門嘉重
◆◆ 12代目加部安左衛門嘉重=加部琴堂の生涯 ◆◆
・文政12年(1829)吾妻郡大戸村(現群馬県東吾妻町)の生まれ。
         名前は加部嘉重である。
  加部安左衛門嘉重は、豪商の家に生まれた。

・幼少〜 父:加部安左衛門兼重は厳しく教育した。 
原町の儒者:木村拓堂の門下になった。
号は「琴堂」となった。
  文学や俳句や漢詩に優れた才能を発揮した。

・文化5年(1808) 大戸宿71軒・・・火災で??軒消失。
加部安左衛門嘉重は援助金を寄付

・天保4年(1833) 江戸城改築
※加部安左衛門嘉重は倉渕村川浦山から御用材の
 切り出し命令を受けた。

※加部安左衛門嘉重は南牧村砥石山の経営。
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  (★南牧村の砥石城)

・天保8年(1837) 大戸宿68軒・・・落雷で23軒消失。
※加部安左衛門嘉重は援助金を寄付

・天保12年(1842)
句会に入選・・・「船はみな うき世はなれし 師走かな」

・天保13年(1843)
  俳諧・・・志倉西馬=惺庵(せいあん)西馬の弟子
  国学・・・橘守部
  儒学・・・亀田綾瀬(りょうらい)
12代目加部安左衛門として家業を継ぐ。
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 (★丸山不二夫氏の本より)
・嘉永3年(1850) 国定忠治の処刑。
国定忠治の処刑・・監視。人足は300人(文書あり)
見物人は約1500人(伝)
秋汲平の本陣5人は  加部安左右衛門宅泊
関東八州廻り16人は 丈四郎宅泊
秋葉堅治郎      宿屋:新井屋泊

  加部安左右衛門は任侠:国定忠治とも懇意であった。
  処刑当日の国定忠治は加部安に酒を一杯ご馳走になった。
「名月赤城山では、なかった。」
それから、処刑場に向かったという伝説が残っている。

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・安政5年(1858)横浜開港・・
・安政6年(1859) 横浜に進出。
   中心部の弁天通りに大きな店舗を構え、外国人を相手に
   生糸や麻・茶・呉服・雑貨などを扱った。
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 (★中居屋重兵衛の店&
     小栗上野介の家族を助けた三井の店)

※繭は2人を通じて仲買いをした。
 主に、@郷原・矢倉・三島
    A岩井・植栗 である。
2000両〜3000両している。
時には信州まで足を伸ばした。
※麻は、岩島麻の仲買し、全国的に有名になった。
    
   大繁昌〜〜〜〜〜。
   嬬恋村出身の中居屋重兵衛とも懇意になった。
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 (★嬬恋村三原の中居屋重兵衛)

   (★銅御殿という程の大金持ちである。
 井伊直弼の暗殺に関わった水戸藩11人+薩摩藩
1名にピストルを渡したと言われている人物である。)

   しかし、俳句に夢中になっていた。
    ※号は、加部琴堂・一籟居・屏山桜。
      句集「穂長集」の発刊。
   店の経営は使用人に任せきりであった。
   やがて経営不振となった。
全国の俳人が、ただ食いしていったからである。

・元治元年(1864) 店を閉めた。
   帰郷→高崎柳川町に移住。
・慶応元年(1865) 娘:「のぶ」を桐生の織物問屋:書上文左衛門
  に嫁がせた。
・明治元年(1867) 東山道督府巡察使から吾妻郡取締役を任命
その後、家督を13代孝重に譲った。

・明治7年(1874) 全ての商売を完全停止。
         全財産を消失。
・明治27年(1894) 5月9日 死去。66歳。


【13代】加部孝重
・明治7年(1874) 全商売の完全停止 →財産整理を実施。
     桐生の織物問屋:書上文左衛門が援助

【14代】加部孝夫=晋太郎
書上商店横浜貿易部に勤務。

【15代】加部秀重
長谷川徳治郎の娘:君代と結婚・・兵役。
長谷川○○工業&関連工場を設立。
社会貢献が多く、天皇より表彰された。

【子孫】 東京に在住。

(★参考文献・・・加部安左衛門:丸山不二夫著
をベースに、勝手に加筆した。)

◆◆ 信州街道&大戸宿 ◆◆
・鎌倉時代・・・源頼朝の「三原の狩り」伝説がある。
 三原は狩宿付近で現在の嬬恋村大桑である。鷹匠の祢津一族
 (滋野系根津氏で、海野氏・望月氏・・・真田氏・鎌原氏・
  西窪氏・羽根尾氏・羽田氏・大戸氏と同族)が、重用され
 たらしい。頼朝もこの道を通った可能性がある。

・文亀2年(1502)&永正6年(1509) 連歌師:宗祇の高弟:宗長が
 大戸城主:大戸三楽斎の館に逗留して連歌を楽しんだらしい。

・永禄6年(1563) は、分家:浦野三河守は武田信玄配下:真田
 幸隆に降伏し、岩櫃城の斉藤憲弘を攻めた。その時も、真田幸
 隆はこの街道を使っている。須賀尾峠から丸岩城・横壁城。長
 野原城・林城・羽根尾城にも行く道があった。
 真田道の脇往還として機能していた道である。

江戸時代には、信濃街道と名称に変わった。
★信州街道は中山道の脇往還である。
「草津道」という別称もあった。草津道とも繋がっている。
・元和9年(1623) 3代将軍:徳川家光の上洛・・
安中藩:井伊直孝(箕輪城→彦根城:井伊直政の長男)
の家臣:向山久兵衛が警備した。
・寛永7年(1630) 小幡孫次郎(武田24将:小幡重貞子孫)と
塚田治左衞門が調査。
・寛永8年(1631) 大戸の関所を設置。
・関守は加部・一場・堀口・田中一族であった。
 
 草津から将軍への「草津の御湯様」「お氷室の御氷様」が献
上品の道でもあった。お通りの際には土下座させられた。

 小林一茶(中山道:柏原宿=戸隠近く)などの文人なども
湯治に使った道である。
 
 信濃大名・・・飯山藩・須坂藩・松代藩も利用している。
弘化3年(1846)には、真田信濃守の家老:鎌原石見守(元々
は、鎌原幸重=真田幸隆の甥の子孫で鎌原城主)がお供300
人&馬100疋を伴って通行した。慶応4年(1851)にはm須坂
藩が参勤交代で、187人が神山宿(下室田)に宿泊した。 
中山道に比べ、宿は少ないが、平坦で距離が短く、経費が
かからないため、参勤交代や3大名の米の荷駄に使われた。
しかし、冬は雪が多いため、4月〜10月までである。

「入り鉄砲、出女」の御法度の上から大切な関所があった。
大戸の関所・狩宿の関所・大笹の関所である。
 
 
@高崎・・
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A豊岡=中山道との分岐

B神山宿(下室田の榛名文化会館の北100m〜)
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C室田宿=榛名神社との分岐

D三の倉

E権田
  東善寺=小栗上野介の墓もある。
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   =川浦&二度上げ方面との分岐

F萩生

G大戸宿
国定忠治処刑地→忠治地蔵尊

大戸宿は賑わった。
・文化5年(1808) 71軒の宿屋があった。
この頃には、武士・文人・商人の他、町人や農民の
往来も多くなった。江戸時代のガイドブック「諸業高名禄」
には、大戸宿は「即席料理:叶屋代次郎」「酒・まんじゅう
:吉野屋栄吉」「傳家:扇家丈八」「問屋:田中市太郎」「宿
屋:えびす家文四郎」が掲載されている。

加部安右衛門宅
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大戸の関所・・・
 関所での死刑は累計8件11人・磔4人
 

大雲寺・・・
  ★住職は高校の2つ上の先輩だった。
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大戸宿内御所=原町・中之条・草津との分岐
大戸宿外御所=須賀尾など信州街道本通り。

途中、大柏木経由で、川原湯温泉に行ける。
 ★藤原系の加辺家もある。
  先には、大柏木城=羽田城がある。

H須賀尾宿
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 (★かやぶきの里)
・文化5年(1808) 小林一茶が宿泊
倉渕三の倉上ノ原猟師宅泊→榛名神社→須賀尾宿:高橋屋
→草津:黒岩鷺白宅→鳥居峠→長野→柏原宿の実家遺産相続
・安政2年(1855)
 家数120軒 人口404人 馬87疋
 旅籠4軒 質屋1軒 茶屋5軒 酒屋2軒 居酒屋? 

分岐・・万騎峠・狩宿方面
・・須賀尾峠・長野原方面

I万騎峠

J狩宿
狩宿の関所

K鎌原
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 (★観音堂・・・天明の噴火
   赤い橋での先で逃げ遅れた母子が発見された。

○西窪(さいくぼ)
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  (★西窪城より鹿沢城を望む。)

L大笹
大笹の関所
 ★写真が見つからない。
  
画像


M鹿沢
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 (★現在は鹿沢スキー場が見える。)

N鳥居峠


真田分岐・・・菅平・松代・須坂・飯山方面へ
・・・真田・上田方面(沓掛宿通り)・・・中山道へ

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コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
初めまして
記事を拝見させて頂きました。
内容は事実でしょうか。
事実であれば子孫として
とても嬉しいです。
加部という苗字は全国で
2200人ほどしかいないそうですね。
私の母方が加部なのですが、
母は一人っ子なので加部家は
また減ってしまいました。
今度群馬の叔母のところにいくので
加部家のルーツについて聞いてみたいと思います。
貴重な情報ありがとうごさいました。
加部の子孫
2015/11/26 00:25
あと一つ言いたいことが
ありました。
加部安左衛門嘉重さんの顔が
祖父にそっくりです。
やはり子孫ですね。
泣けてきました。
加部の子孫
2015/11/26 00:29
加部安左衛門さんは凄い方です。実家の方にお話を聞かれると、もっと凄い話があるかもしれません。加部家の歴史、とっても面白いと思います。
加部の子孫様へ
2015/11/26 09:40

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