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zoom RSS 箕輪初心★大河ドラマ【平清盛】親友:佐藤義清=西行@「出家の謎」

<<   作成日時 : 2012/03/18 04:58   >>

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平成24年のNHK大河ドラマ『平清盛』に出てくる佐藤義清
(のりきよ)は、百人一首に出てくる西行法師のことである。
松尾芭蕉爺さんも追っかけした凄い人物である。日光や東北
にも西行法師の和歌があったっけな。・・・と思いだした。

平成24年NHK大河ドラマでは、平清盛の親友:佐藤義清は
18歳で鳥羽院の北面の武士となり、和歌をたしなみ、イケメン
ぶりを発揮し、都の女姓を魅了した。でも、妻や子供がいるのに
白河院の愛妾で鳥羽院の中宮=妻:待賢門院を好きになっちゃ
うのだ。17歳も年上の40歳の女性であった。やるなあ、義清は。
★平成24年3月11日の東日本大震災の日のTVでは、人妻の待
賢門院を愛すが故、「助けられるのは私だけ。」歩む寄る?。でも、
待賢門院は水仙を見に行った崇徳院が忘れられず、院の庭にある
水仙を探し、喜ぶ。待賢門院に拒絶された佐藤義清は首を絞めて
しまうのだった。それを堀川に見られた。堀川は「去る。」ように
言った。佐藤義清は一端は逃げた。平清盛が待賢門院に弁解をしに
いき、「身代わりなる。」と言った。しかし、内大臣:藤原頼長の追
求が厳しく、崇徳院の前に佐藤義清はよびだされる。しかし、崇徳
院は「待賢門院のことなど、波風も立たぬ。」を開き直った。佐藤
義清は、崇徳院の待賢門院への愛情の深さを知った。家に帰った。
桜の花びらを持って父に見せる自分の子(伝説では、出家をいやが
り衣の裾に取りついて泣く子)を縁側から蹴落として家を捨てた。
平清盛は自宅に呼んだが来なかった。平清盛が義清を諫めるが、
23歳の若さで出家を決意するするストーリーであった。ホントかあ?

画像


【1】◆◆TVでの3人の武士の人間像を比較 ◆◆
佐藤義清は白河院の御落胤:平清盛と同年で親友だった。
@佐藤義清・・イケメンで、和歌と武芸に優れた人物。
 文武両道に優れ、宮中の女官達から、憧れの的の若武者で
  あった。(★大河ドラマでは)
 ★藤原秀郷の本流:藤原秀衡から奥州藤原の血をひく武家
 の出で、7代目で佐藤を名乗った9代目の子孫である。
西行は奥州藤原をバックボーンに持つ素封家の御曹司。
→歌人として「新古今和歌集」の筆頭に推挙された人間。

A平清盛・・・馬鹿で粗暴無骨あるが、人間味溢れた人物。
 ★白河法皇の落とし子で桓武平氏の嫡流。
平清盛は武家集団のトップに君臨する平氏の御曹司。
→後に、権力の頂点に上り詰めた人間。

B源義朝・・・先見の明があり、武家政権を夢見る人物像。
★清和源氏の嫡流
源義朝は武家集団のbQに君臨する源氏の御曹司。
→後に平氏を倒して武家政権を確立させた頼朝を輩出した人間。

 ★共通点は、「武家の実力を認めさせたいという強い思い
 のある向こう気の強い夢見る若者である。」ということだけで
 ある。実に、脚本家の先生は素晴らしい。


【2】◆◆ 佐藤義清出家の動機説5 ◆◆
西行伝説は「18歳で任官し、23歳で出家した。」
 将来を嘱望されながら、前途有望な若者が戦線離脱した。
 残っていたら、スーパーエリートで政権を握ったかも?。
 しかし、出家が伝説の始まりなのかもしれない。


@失恋説・・・今までの通説であるらしい。
『源平盛衰記』・・・高貴な上臈女房と逢瀬をもったが「あこぎ」
  の歌を詠みかけられて失恋した。
『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)・・御簾の間から垣間見え
 た女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけ
 て一度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。
 この女院は、白河院の愛妾で鳥羽院の中宮:待賢門院璋子である。
『白道』(瀬戸内寂聴著)待賢門院への失恋説をとっているが、
  美福門院説もあるとしている。出典不明。
『院政期社会の研究』(五味文彦)上西門院。根拠不明。

A友人急死説・・最近の有力説らしい?
『西行物語絵巻』(作者不明・二巻現存。徳川美術館収蔵)
 急死した親しい友の死から人生の無常を悟った理由に北面を辞した
 と記されている。伝説では、同族の藤原憲康の死に無常を感じて
 出家したという説である。

B皇位継承をめぐる政争への失望説

C解脱&仏の道への熱望説=自分の弱さからの脱皮説。

※大河ドラマでは、B&Aをミックスさせた説をとっていた。
画像

 (★ウキペディア・???を参考に作成)

D強姦失敗説=★箕輪初心の勝手な想像
 ★待賢門院は白河院の愛妾であった。
画像

 (★伊東四朗がかっこよかった。)  
  鳥羽院の中宮=妻:待賢門院を好きになっちゃうのだ。
  17歳も年上の40歳の女性であった。
画像

(★大河ドラマの写真より)
 
 ★佐藤義清は17歳も年上の40歳の女性を好きになった。
  妻や子供がいるのに、やるなあ、佐藤義清は、〜〜〜。
  佐藤義清は、偉い。40歳の女性に恋しちゃうのだから。
  俺が若い頃、年上で好きになったのは6つ上の女性だった。
  25歳になった時には子持ちの女性が私にアタックしてきた。
  でも、半ば生理的に40歳位の女性はかなり無理があった。
  遙か遠いババアの世界と感じていたからである。

  確かに、芸能人で、吉永小百合や大原麗子などという
  素敵な俳優さんには憧れのようなものはあった。
  
  〜〜〜こいつ。
  マザコンだったのであろうかと思ってしまう。
  人それぞれといったら、返す言葉もない。
 
  佐藤義清は現実の天皇家や貴族社会の政権争いの社
  会に多くの矛盾を感じたのに違いない。宮勤めの悲しさ
  を知り、サラリーマン生活に失望していたのではないだろ
  うか。
  佐藤義清は、年上の熟女を手名付け、出世を考えた。
  でも、鳥羽院の中宮:待賢門院璋子の強姦?に失敗した。
  それ故、馬鹿な自分に嫌気がさしたのはないだろうか?
  だから、出家の道を選び、自分の別の才能である和歌
  の道に徹したのではないだろうか?・・・

  どうしても、待賢門院強姦説しか、俺には浮かばない。
  どうして俺は「げすの考え」しかできないのだろうか?
  
  ★結論・・「ドラマを信じるしかないのか、俺は。」
  しかし、ドラマを歴史の史実と考え初めている自分もいる。
  私は大河ドラマに毒されてしまったのだろうか?

  本当の出家の動機は、一体何だったのだろうか?


【3】◆◆ 佐藤義清&平清盛の身分 ◆◆
★7C後半〜の日本の律令時代には唐から四等官制が導入された。
長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の
四等官が定められた。平安時代の令下の官の検非違使の官位は
@別当→A佐→B尉→C志である。
第二次世界大戦中の軍隊の位と同じで、
大将・中将・少将・・・
大佐・中佐・少佐・・・・・平清盛は11歳(小学校5年)
大尉・中尉・少尉・・・・佐藤義清は18歳(大学1年生)
軍曹・伍長・・

※平清盛は11歳で「佐」官である。
画像

●大治4年(1129)1月6日 従五位下。
   1月24日左兵衛佐。(11歳)
●大治6年(1131)1月5日 従五位上(12歳)
○長承元年(1132) 父:平忠盛は内昇殿が許可された。
●長承4年(1135)1月5日正五位下。      
  父:平忠盛&清盛は瀬戸内海の海賊を追討。
       70人の海賊を連れて帰京。   
  8月21日、従四位下。(17歳)
●保延2年(1136) 4月7日 中務大輔(18歳)
●保延3年(1137)1月30日 肥後守兼任(19歳)
●保延6年(1140)11月14日 従四位上(22歳)
●久安2年(1146) 2月1日 正四位下。鳥羽法皇の信任得て・・・
         2月2日、平安芸守兼任&肥後守任替。(28歳)
流石、白河院と祇園女御との間に生まれた「隠し子」である。
 平氏の棟梁平忠盛の嫡子=養子なったのである。
 祇王の女御説もある。

(★大河ドラマでは。でも説は4つある。)

※佐藤兵衛尉義清は18歳で「尉」官である。
→「佐」と「尉」の階級差は凄い物がある。
本当に、この2人がタメ口をきいていたのだろうか?という
 疑問が私には残っている。平清盛が佐藤義清を味方に引
 きずり込もうとしたのではないか?という憶測もできる。



【4】◆◆ 佐藤義清=則清(のりきよ)の先祖&出自 ◆◆
1)佐藤義清の先祖・・・藤原秀郷流。
藤原秀郷の7代目の子孫:藤原公清が佐藤を名乗った。
(=佐藤義清の曽祖父は:藤原公清の佐藤公清と改姓。)
紀伊国田仲荘の預所に補任されて裕福であった。
※紀伊国田仲荘(=現紀ノ川市)。紀ノ川沿岸も板東2番:
粉河寺の南西の肥沃な土地である。上流は吉野川である。
★預所(あずかりどころ)とは、京都にいる荘園の持ち主の
現地への派遣長官である。田仲荘は摂関家=藤原家の所領で、
佐藤氏は田仲荘の荘園の在地代理領主として経営をまかされ
ていたのだ。つまり、佐藤家は、エリート一族であったのだ。
佐藤義清は華麗なる一族の亜流=分家なのである。藤原秀衡
とも近い親戚なのである。


◆◆ 【5】佐藤義清=西行の生涯 ◆◆
)誕生〜・・・
・元永元年(1118) ●佐藤義清が誕生&平清盛が誕生。
  紀伊国田仲荘(=現紀ノ川市)に在住か?
・保安4年(1123) ※崇徳天皇は5歳で即位。
 
  紀州宇久井村(和歌山県那智勝浦町)
  『目覚山 下す有らしの はげしくて 
        高根の松は 寝入らざりけり』

画像

 (★那智勝浦の世界遺産の旅より)

2)摂関家への出仕時代
・長承2年(1133) ●16歳頃から徳大寺家に仕えた。
    右大臣徳大寺実能や嫡子:公能と親交を結ぶ。
    百人一首の後徳大寺右大臣は公能の子である。
 
 ※和歌に関する若年時の師匠は不明である。〜〜〜
  @崇徳院の歌壇にあって、藤原俊成と交流があった。
  ★藤原俊成は確か右大臣徳大寺実能の兄弟?である。
    
  A俊恵が主催する歌林苑からの影響をも受けたらしい。
俊恵=源俊頼の次男で、東大寺の僧。
「方丈記」の鴨長明の師匠である
 ★でも、きっと素晴らしい師匠がいたに違いない。

●この頃、平忠盛&清盛が瀬戸内海の海賊を押させ、
 家臣団に組み込んだのであった。 
 春日神社や延暦寺の僧兵も強訴してきていた。


3)北面の武士の時代
・保延元年(1135) 下北面・鳥羽院に謹仕
      18歳で左兵衛尉(左兵衛府の第三等官=少尉)

・保延3年(1137) 鳥羽院の北面武士として出仕。
(★記録が残存)
    和歌と故実に通じた人物として知られていた。

『後鳥羽院御口伝』・・・「西行はおもしろくて、しかも心こと
  に深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。
  生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。
  不可説の上手なり」・・
 ※現代語訳&端的な解釈では、
「西行は生まれながらの歌読みで、凡人が真似してはいけない。」
という意味だそうである。

大河ドラマでは、
 イケメンぶりを発揮し、都の女を魅了した。
 同僚が白河院の御落胤:平清盛で同年で親友だった。


4)出家の決断の時・・
後鳥羽院に、いとまを申し侍るときの歌
『惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは
       身をすててこそ 身をも助けめ』

※意味:いくら愛着をこの世に持ったところで、自分の思う
  ようにはならない。だから、我が身を投げ出して、愛着をた
  ってしまいたいのだ。・・と載っていた。

友達には、
『世の中を そむきはてにと いひおかむ
        思いしるべき 人はなくても』
※略。・・・わかるなあ。

平清盛には、佐藤義清は清盛に殴られながら、
  『身をすつる 人はまことに すつるかは 
    すてにひとこそ すつるなりけれ』
(★大河ドラマ)

・保延6年(1140)23歳で出家。円位を名乗った。(後に西行)。
        
 @小倉山(嵯峨)の庵・・・勝持寺(伝)
画像

 (★大河ドラマの紹介映像より)
 
  ※関係ないけど、平清盛の妻は祇園女御
    清盛の愛妾:祇王
   祇王寺で隠棲・・・・勝持寺の近くでは?

画像


 A鞍馬山の庵・・・
画像

 (★鞍馬寺の山門)  

 B奈良の吉野山・・秘境の霊場:吉野。10万本の桜がある。
 『花に染む 心のいかで  残りけん 
    捨て果ててきと  思ふわが身に』

 ※意味:世の中への執着を全て捨てたはずなのに、なぜ
   こんなにも桜の花に心奪われるのだろうか???
  ★西行は煩悩に苦しんでいる「煩悩の徒」であった。
  迷いや心の弱さを素直に歌に込めていった。
 
 
 『いつの間に 長き眠りの 夢さめて 
        驚くことの   あらんとすらむ』

 ※意味:いつになれば長い夢=迷いから覚めて、万事に
   驚かない心=不動心を持つことができるのだろうか。

画像

 (★大河ドラマの紹介映像より) 
 『ねかはくは 花のしたにて 春しなん 
      そのきさらきの もちつきのころ』
(山家集)

 『ねかはくは はなのもとにて 春しなん 
      そのきさらきの 望月の比』
 (続古今和歌集)

  花の下を「した」と読むか「もと」と読むかは
  山家集&続古今和歌集とで異なる。
  花=桜である。

 『願はくは 花の下にて 春死なん 
       そのきさらぎの 望月のころ』
  
  ★藤原定家や僧慈円の感動と共感を呼んだことは確かだ。
  (★国文学研究資料館&電子資料館)


・康治元年(1142)  待賢門院出家(42歳)
            草庵を創建。
 ●西行の妻は、天野の庵で生涯暮らした。
★西行は悶々と暮らしていたのであろう。

C鈴鹿の庵
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 (★御在所岳より見た鈴鹿の町並み)
  『鈴鹿山 浮き世をよそに 振り捨てて 
    いかになりゆく わが身なるらむ』

  ※意味:鈴鹿山で、浮き世を振り捨てこうしているが、
    これから、私はどうなっちゃうのだろうか?

 『世の中を 捨てて捨てえぬ 心地して 
        都はなれぬ 我が身なりけり』

 ※意味:世の中を捨てたはずなのに、都の思い出が煩悩と
    なって、私から離れないのだ。ダメな男だ。俺は。
かつての女性を思い出しながら、嘗めた男だった。
 「人生嘗めずに、これ、舐めて=キンカンのど飴」〜〜。


5)近隣漫遊の旅の時代・・・★おそらく、現世への未練?  
  ●諸国をめぐり漂泊の旅に出て多くの和歌を残した。

・天養元年(1144)

・久安元年(1145) 待賢門院没(47歳)
堀川は待賢門院の別の愛妾かもしれない?・・・。
  成子に土佐に流されたようだ。
画像

旅立ちのきっかけかもしれないなあ。
  大河ドラマでの「待賢門院の復活を願う佐藤
  義清の姿が打ち出されていたが・・・
  まさに、一夜の恋に溺れた女性の歌であろう?
  またまた、勝手な箕輪初心の勝手な解釈なのである。

  
  ★唯一の北面の武士で親友=真友に別れを告げた
  西行は、愛する待賢門院の死はショックだったに違い
  ない。〜〜〜。だから、奥州の親戚:藤原秀衡を訪ね
  てみるか?・・・思ったのに、違いない。
  奥州への旅立ちは2年後であった。

  
  ★俺は、研究者ではないので、勝手な戯れ言である。
  NHKの歴史考証スタッフの熱意に免じて
  西行を+イメージで、考えてみようと思う。
  ドラマ=歴史の真実と思いつつある自分がいるので、
  実に、情けないことである。



★明日は、「西行の生涯」・・・特に、奥州を考えてみよう。

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