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zoom RSS 箕輪初心●福岡【大野城】=東国防人の呻き声が聞こえる城

<<   作成日時 : 2011/12/18 07:28   >>

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『防人』=「白村江の戦いで日本軍が新羅・唐の連合軍に敗れ
たため、日本九州の防のための徴兵制度をしいた。」くらい
にしか、教科書に出てこない。そして 、具体的に何をどうし
たか教えたくれた歴史の先生は誰もいらしゃらなかった。
@日本の奈良中央政権が新羅・唐に危機感を持った。
A大野城は新羅・唐から太宰府を守る山城だった。
B大野城→水城→西門&基肄城は防衛ラインだった。
C東国の防人は警護でなく、防衛ラインの建築に当たったのだ。
つまり、律令国家の最大プロジェクトだったのだ。
大野城に行って初めて分かったのだ。

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■訪問記・・・平成23年(2011)10月8日
○福岡城からホテルに戻り、ナビをセットした。
○大野城ICでおり、山道を進む。
@百間石垣・・・★7Cの石垣にびっくり。
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○四王寺県民の森管理事務所・・・
※道間違い・・2kmほど
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A四王寺県民の森管理事務所
 ★百名城スタンプ設置所。でも、今日は休みだった。
  置く場所を所を工夫できないのであろうか?
 「百名城スタンプあり」の看板や案内を工夫はないのか?
 城巡りファンを嘗めている。腹が立った。
 結局、スタンプは梨の与一・・・・腹、たった。
  ※太宰府政庁の展示館も休みだった。
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A焼き込めヶ原・・山登り散策40分?
 礎石を用いた総柱の高床式の倉庫であり、武具・炭化した
 米粒などが検出されている。・・地名がそのまんまである。
尾花地区建物群
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 ★この戸塁は8kmあるという。
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C太宰府口城門
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 発掘調査の結果、現在の石敷もう一列の石敷が見つかった。
 現在の門の跡は礎石の上に門柱をたてる型式であるが、
 最初に造られた門は掘立柱の門であったことが発掘でわかった。
 少なくとも、2回建て替えがあったという。
門の西側の谷間は石塁がある。
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D岩屋城
 岩屋城本丸跡からは大宰府や水城・基肄城などがよく見える。
 特に水城跡の全体がよく見える。
大野城・水城・内陸の大宰府・基肄城の位置関係が分かる場所である。
★防人は東国の中心地:上野国(群馬)経由だった。
  東歌が聞こえる。東国に残した家族を思い出しているであろう。
 ★岩屋城の詳細は後日・・・

●パンフレット・・・
 四王寺山中腹には8200m以上に及ぶ土塁が円形に巡られている。
 土塁が谷にかかる場所には4ヶ所に石垣が築かれている。
 城内の平場には数棟ずつ7ヶ所に礎石群が残っている。
「大野城は大宰府防衛を目的とした大規模な建造物の一部である。」

大野城の歴史
・天智2年(663) 白村江の戦い・・・
 百済を支配下においた倭国(日本)は新羅・唐連合軍に敗戦。
 →日本は防備を固めるため、防衛施設を建設。(★『日本書紀』)
・天智3年(664) 対馬・壱岐・筑紫に防人を招集と
        ・・・のろし台を設置。
大宰府の西方に水城を築造。
・天智4年(665)長門に城を築城。
  太宰府に大野城及び椽(きい=基肄城)を築城。
 ※亡命百済人の達率(だっそつ:貴族官位)の憶礼福留(おく
 らいふくる)と四比福夫(しひふくふ)が大野城及び椽を築城。
 ※基肄城・・佐賀県三養基郡基山町から福岡県筑紫野市)

・宝亀5年(774)持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王を祀っ
 た四王寺=四天王寺が建てられ、四王寺山と呼ばれるようになった。
 大野城跡は四王寺山=大城山にある。
(★パンフレットにも四王寺山と表記されている。)


大野城の日本100名城スタンプ設置場所
 @四王寺県民の森管理事務所
 A大宰府展示館
 B太宰府市文化ふれあい館
 B大野城市総合体育館

大野城の日本100名城選定に当たっての所感
★大野城=「大宰府政庁を守るために、西向かいの基山に基肄城
・間に水城とよばれる長城・そして大野城というを堅固な防衛
ラインが造ったのである。」・・・膨大な国防計画だったのだ。
★行って見なければ、百名城になった理由は分からないだろう。
しかし、上記の防衛ラインが複合的な城であるの考えるべきで
あろう。日本城郭研究会が大野城だけの選定には疑問が残る。
「大野城は7世紀に造られた福岡県にある朝鮮式山城である。」
「大野城は太宰府北の標高約410mの四王寺山一帯にある。」
どのなどの説明だけでは正しい理解ではないといえないであろう。
「百名城の選定基準は、結構、嘗めた選び方だ。」と私は批判
的だった。しかし、「吉野・・遺跡」「名護屋城・」に行って
妥当だと思うようになったのことは確かだ。

防人制度
1)時期・・大化の改新(645)頃〜平安時代頃

2)目的・・白村江の戦いの敗北で、唐が攻めてくるのではない
  かという不安から九州沿岸の防衛のため設置された辺境防備
  のために徴収された徴兵制度である。主に東国の兵士である。

3)東国から徴用理由
  @白村江の戦いの敗北で北九州の兵士が激減したこと
  A東国は大和朝廷の軍事的基盤で徴兵しやすかったこと

4)任期・・・3年である。任期の延長がよくあったらしい。
  @東国から九州→A到着日から3年→B九州から東国
  ★3年半程度がかかったと推測できる。

5)人数・・約3,000人。1年おきに約1,000人程度が交代?
        
6)万葉集「防人の歌」
  防人本人や見送る家族の歌が多数掲載。
  東歌は万葉集の巻十四の一巻に収録。
   238首はすべて短歌定型57577。全首が作者不明。
  大伴家持が編纂したと考えられている。


『万葉集』東歌の防人歌・・・100首以上収録。
国が銘記された歌は95首。
@上野国の26首・・・地名を含む歌がある。
  利根川以東・・8首。
  利根川以西・・18首がの地名がある。伊香保(=榛名)9首。
  ★利根川はこの時代は広瀬川以北(前橋市田口町2011年発掘中)
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 (★群馬:伊香保温泉露天風呂手前100m)

A相模16首
B常陸12首
C武蔵10首
   (★吉永哲郎著『万葉を哲学する』上毛新聞社より)


7)東山道〜奈良〜山陽道〜九州:大宰府
 ★交通も情報も発達していない時代に、家族と3年以上も離れ
  離れになって兵役につく悲しみや不安はどれほどのことか?
そして、食料&武器は自弁であった。
上野→碓氷の入山峠(有力説)→軽井沢・・時代に4コース
 (@上田・保福寺峠・松本コース A今の中山道 B大道峠
  白樺湖コース)・・元三州街道:伊那市うとう峠など
→信濃・美濃国境の御坂峠・・・後は中山道とだいたい同じ。

8)防人の指揮・・太宰府長官。

9)東国の苦しみ・・防人期間中も税は免除はない。
  農民にとっては重い負担であった。
  ※757年以降は九州からの徴用。

10)防人制度の変遷
・平安時代・・・桓武天皇の792年に健児の制
        朝廷は防人廃止をしなかった。
  8世紀の末〜10世紀の終わり・・・新羅の入寇。
  弘仁、貞観、寛平の入寇・・大規模に警護にあたった。
・院政期・・・北面武士・追捕使・押領使→地方武士団が成立。
  防人軍団の規模を縮小→大宰府消滅とともに消えていった。

   (★吉永哲郎著『万葉を哲学する』上毛新聞社より)

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