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zoom RSS 箕輪初心★【遣米使節団佐賀8人&小栗上野介J&大隈重信】一考察

<<   作成日時 : 2011/10/25 06:50   >>

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殖産興業政策を展開して日本資本主義の基盤を創造した大隈重信は
「明治の近代化は、ほとんど小栗上野介の構想の模倣に過ぎない。」
と語った。大隈重信は小栗上野介従兄妹:三枝綾子を妻にしたのだ。

★★★万延元年(1860)の遣米使節団に佐賀藩から小栗上野介と
ポーハタン号で行った人がなんと7人、咸臨丸が1人いたのだ。
ふと、閃いた。「もしかして、7人のだれかが、大隈重信に小栗上
野介を紹介したのではないだろうか。そして、大隈は小栗の偉大さ
に圧倒され、小栗の従兄妹:三枝綾子を嫁にすることにしたのでは
ないだろうか?」★私は「綾部新五郎」ではないかと思っている。
この推測は、私の勝手な推測である。しかし、小栗上野bP研究の
村上先生でも『遣米使節佐賀県人&小栗上野介&三枝綾子&
大隈重信』関係を述べた形跡がないので、もしかしたら、私が一番
最初であるかもしれない。村上先生が私のブログに多少刺激され、
この関係について更に詳しく調べて下さったら、最高である。

画像

 (★大隈重信の生家の隣・・パンフレット)
【1】大隈重信と小栗上野介の出会い★箕輪初心の推測。
・万延2年(1861)遣米使節団が欧州→アフリカ・・帰国。
 大隈重信は佐賀に戻った@小出千之助 A川崎道民 
 A福谷啓吉 C島内栄之助 F本島喜八郎達から、
 アメリカの様子や世界情勢を聞いたのであろう。・・
 英語勉強仲間の小出千之助からの情報が多かったと
推測できる。小栗の凄さも知ったのではなかろうか?
小出千之助から脱藩先も、佐賀藩分家の綾部新五郎か
宮崎立元かを内密に教わったのではないだろうか?

・慶応3年 (1867 ) 29歳の大隈重信は副島種臣と脱藩
  →イギリス艦で江戸上京。
 推測@江戸潜伏期間中に、江戸在住の佐賀藩関係者
★綾部新五郎幸佑に世話になったのでは?
(蓮池藩は佐賀藩の分家なので、脱藩後の身としては
  ここがBestではないだろうか?、
 綾部新五郎から大隈重信の書簡が多数現存・・。
   つまり、綾部新五郎&大隈重信は親友だったのだ。

         (★早稲田大学図書館参照)
宮崎立元(小城藩→幕府洋書調所→遣米使節医師)
(小城藩も佐賀藩の分家なのである。)も可能性がある。 
 推測Aそして、小栗上野介を紹介されたのではないだろうか?
 推測B大隈重信の世界観・日本の進むべき道に対する考えは
  小栗上野介によって広がったのではないだろうか?

 推測Cそして、大隈重信は小栗上野介宅にいた三枝綾子に惚れて
  しまったのではないだろうか?

  後に大隈重信の妻になった三枝綾子は小栗上野介のもとで育
  てられたのである。
  ★倉渕に連れて来なかったことに疑問が残るが・・。     
・慶応 4年 (1868) 閏4月4日 ★小栗上野介の斬首 
斬首後、三枝綾子は小栗のバックボーンを失って、一時、
芸奴になっていたらしいが、大隈重信は業界から足を洗
わせ、
明治2年(1869)に結婚したのである。

●●●シャルミラさんよりの指摘
 「大隈綾子夫人が芸妓だったというのは俗説です。
  高村光雲著「幕末維新懐古録」岩波文庫
 を参照してください。」とのこと、
・・・11月10日
 ★新情報を下さり、ありがとうございました。
  下記、参照。


【2】遣米使節の目的・・日米修好通商条約の批准書交換
正使:新見豊前守・副使:村垣淡路守・監察:小栗上野介
http://www.geocities.jp/like58tearsinrain/gyaku/sinmi-ikkou.htm

【3】第10代佐賀藩主鍋島直正が遣米使節に選んだ藩士。
医師・・・・・川崎道民・宮崎立元(小城藩→幕府洋書調所)
火術方・・・本島喜八郎・島内栄之助
蘭学寮・・・小出千之助・秀島藤之助(※咸臨丸)
精煉方・・・福谷啓吉・綾部新五郎(蓮池藩士)
 ※小城藩や蓮池藩は佐賀藩の分家である。

画像

アメリカの軍艦や台場・海軍学校・ワシントン造船所などを見聞。
★佐賀藩の写真は4人。
@小出千之助 A川崎道民 B福谷啓吉 C島内栄之助である。
画像


【4】万延の遣米使節団に佐賀藩から8人の経歴
http://www.saga-s.co.jp/life/photos_top/kindai_top/topicks/serial.0.1529614.article.html
@小出千之助・・ 不詳〜慶応4年(1868)
 ・万延元年(1860) 遣米使節:刑部鉄太郎政好の従者
 ・文久3年(1863)には英学を学び、鍋島閑叟公の御側に勤めた。
  ★大隈重信と一緒のアメリカ人フルベッキ先生。
   大隈重信の世界観は2人の影響が大きかったのでは?

 ・慶応3年(1867) 佐賀藩・幕府・薩摩藩とパリ万博に参加。 
A川崎道民勤・・・不詳〜明治14年(1881)
 ・須古鍋島家の医者川ア家の養子。
 ・万延元年(1860) 遣米使節団の御雇医師
 ・文久2年(1862) 福沢諭吉らと幕府遣欧使節団に参加。
  ロンドン万国博覧会などを視察。フランスで写真術を習得。
  蘭医として幕府に出仕。新聞社設立。
B福谷啓吉=福村磯吉宗明 文政2年(1819)〜明治22年(1889)
 ・愛知県吉田(豊橋)→京都→長崎→佐賀。
 ・嘉永5年(1852)佐賀藩は精錬方に佐野常民や福谷啓吉らを登用。
  長崎海軍伝習所でオランダ海軍士官から航海術を学んだ。
 ・万延元年(1860) 遣米使節団・・村垣淡路守範正の従者
アメリカで造船や化学工業の知識を学んだ。
・帰国後・・・佐賀藩の軍艦:凌風丸の造船に携わった。
 ・明治維新後・・工部省や農商務省などで活躍。
画像

画像
 
C島内栄之助=島東西八芳義
 ・万延元年(1860) 遣米使節団外国奉行取調方:塚原の従者
島内栄之助は遣米使節=随行の際の記録をまとめた。
 米行日録には、日々の日記のほか、訪問した場所(ハワイ・
 サンフランシスコ・ワシントンなど)の歴史や政治や文化など
 についても記されている。川崎道民の従者として随行。

http://www.saga-s.co.jp/life/photos_top/kindai_top/kousei1/01.html
佐賀城ボランティア:納富さんの話
 「只今、米行日録を解読中である。」とのことだった。
 島内栄之助は、火術方で砲術等に関する研究を続けた。

画像

D綾部新五郎(蓮池藩)・・・
 ・万延元年(1860) 遣米使節団・・村垣淡路守範正の従者
 小城藩の英学導入・大木丸の購入。

E宮崎立元(小城藩医→幕府洋書調所の教授手伝い→御雇医師)
 ・万延元年(1860) 遣米使節団・・幕府の医師として出航。
  本道寄合医師:宮崎立元正義
   
F本島喜八郎
 ・万延元年(1860)外国奉行支配調役:塚原重五郎昌義の従者      
 ・帰国後、火術方で砲術等に関する研究を継続。
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 ★佐賀藩がまだ水力で大砲の筒を削っていた。
  小栗上野介は横須賀造船所で蒸気で大砲の筒を削らせた。

 納富さん「幕府より佐賀藩は200挺の大砲製造依頼を受けた。」

G秀島藤之助(咸臨丸の木村摂津守の従者)
・万延元年(1860)咸臨丸で、渡米。
   ・勝麟太郎、中浜万次郎、福沢諭吉らと一緒。
 ・電流丸の航海を指導。
・元治元年に佐賀藩が長崎の英商グラバーより蒸気船:
    甲子丸を購入するに当たり、検分のため派遣された際、
    田中儀右衛門(東芝の祖:田中久重の子)を殺害。
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【5】小栗上野介の偉大さ
小栗上野介忠順・・幕末期、徳川幕府は、幕藩体制の疲弊&欧米
列強からの圧力に、崩壊寸前であった。世界一周の旅から帰った
小栗は、日本近代化の政策を打ち出した。
造船所建設・株式会社の設立・軍政改革などである。・・・
しかし、この動乱の時代に、江戸幕府と運命をともにした。
輝かしい功績も、明治政府の「薩長史観」のため、歴史からは、
抹殺された。


★★「小栗上野介」の帰国後の業績&提唱★★
【1】横須賀造船所の建設の構想+業績。
@群馬:下仁田中小坂鉄山→A横浜製鉄所→B横須賀造船所
【2】@から、群馬下仁田中小坂の鉄鉱山開発の推進。
【○】Aへ運ぶ【江戸〜横浜】間の鉄道の建設構想
【3】A横浜製鉄所
【4】兵庫商社=日本初の株式会社の設立・
    ・大坂商人20人で発足。明治維新で廃止。
【5】築地ホテル=日本で最初の水洗トイレ(株式会社)
【6】フランス式陸軍制度の導入&訓練
【7】フランス語学校の設立
★★「小栗上野介」の帰国後の提唱★★
【8】ガス灯の設置の提唱
【9】郵便制度の提唱
【10】電信制度の提唱
【11】新聞発行の提唱
【12】鉄道建設の提唱・・・江戸〜横浜
【13】森林保護の提唱・・・
【14】中央銀行の設立の提唱
【15】商工会議所の設立の提唱
【16】小布施の船の株式会社の建設構想

小栗の残した物の規模が凄すぎる。
勝海舟・坂本龍馬だけでなく、小栗上野介を正当に評価し、
歴史に取り上げるべきである。

小栗上野介忠順は、幕末の徳川幕府を支えた官吏で、
勝海舟のライバルと呼ばれている。でも、ジャンルが違う。

小栗上野介忠順は坂本龍馬よりも早く、商社設立構想や郡県
 制度を提唱している。

・慶応 4 (1868)年 42歳
小栗上野介忠順は、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れた後、江戸
で幕臣を集めて謀議をした際に徹底抗戦を主張した。小栗の「駿河
湾からの攻撃作戦&箱根待ち伏せ作戦」に賛同する者が多く、一旦は
この方向に決定した。しかし、翌日、勝海舟の恭順策に考えを変えた
徳川慶喜によって小栗は罷免された。
大村益次郎は、岩倉具視宛の書簡で関東の旧幕軍の不穏な動きへの
懸念、速やかな鎮圧の必要と策を述べそ有栖川宮東征大総督府補佐と
して江戸入りした。日田に入湯したことのある大村益次郎は
「もし小栗の戦略が実行されていたら、官軍はおそらく敗北してい
ただろう。」と言ったという。
西郷隆盛の指示による江戸での薩摩藩の強奪・乱暴狼藉に腹を立てて
殴り込みをした小栗上野介の実力を恐れた西軍は上州(群馬県高崎市)
権田に引きこもった小栗上野介を捉える作戦に出た。
4月22日 東山道総督が高崎藩・安中藩・吉井藩に追補命令。
※東山道総督:岩倉具定(具視の子17歳)
東山道福総督:岩倉具経(具視の子16歳)
参謀:板垣退助 & 伊知地正治・・・実質的な指令 
「小栗上野介・・陣屋を厳重に相構え・・・。」
4月29日  東山道総督の命 神山宿で大井・沓掛が面会。
      →三藩は追補兵を三ノ倉に宿陣(全透院)。
閏4月 1日  三藩は観音山等を検分。
       逆謀私心無き事を知り、銃5挺などを押収。
閏4月 2日  養子又一、用人塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助を
       随員として高崎藩へ 無実弁明のため出向いた。
閏4月 3日 妻の脱出計画。・・・後。会津へ。
閏4月 4日 ※東山道鎮撫総督府軍監副巡察使:原保太郎・豊永貫一郎
「小栗上野介は大罪人であるから、追補せよ。」と激怒。
「従わない場合は、3藩に保証はない。」と脅迫。
巡察使:大音龍太郎の意向もあった。(★村上氏)
※大音龍太郎・・・近江伊香郡木之本村大音(小谷城近く)
の出身で、勤王浪人・・・箕輪村龍門寺(井伊直政建立の
鬼門の寺)に2年程滞在・・巡察使・・初代:岩鼻県知事)

閏4月 5日 3藩の兵が東善寺裏山より侵入。
       小栗上野介らを捕縛→三ノ倉の陣屋(戸塚宅)に連行。
閏4月 6日  取り調べなく、水沼川原で家臣とともに斬殺。
大井礒十郎・渡辺太三郎・荒川祐蔵・・斬首。
小栗上野介を斬首。
・・安中藩徒目付:浅田五郎作が原に命じられ、斬首。
閏4月 7日  高崎藩牢屋敷処刑場で
       養子:小栗又一・用人:塚本真彦、
       沓掛藤五郎、多田金之助を斬首。
●=〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
4月   大音龍太郎の届け出 
「小栗上野介は松平容保・小笠原壱岐守と結託し、碓氷峠で
   官軍の待ち伏せを計画するため、権田村に引き込んだ。
   百姓が蜂起すると、罪のない百姓を殴打した。
   官軍たりとも我が地に踏み込んだ者は取ってやる・・・
   そこで、高崎・安中・吉井の3藩を・・差し向けたところ
   機械を隠し・・・「中略」・・・鉄砲数十挺を土の中に・・
   上野介父子並家来六人を斬罪にしました。・・・」
★捏造だった。
問答無用の斬首刑になった幕臣は小栗と近藤勇の二人だけである。

【6】大隈重信の生家
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  (★パンフレットの写真)
 
【7】大隈重信の年譜&小栗関係
・天保 9 年(1838) 2月16日 佐賀で生誕。父:信保&母:三井子
・安政元年(1854 ) 義祭同盟に加入 (日米和親条約締結)
・安政3 年(1856) 蘭学寮に入舎。枝吉神陽に国学を学ぶ
・文久元年 (1861) アメリカ人フルベッキに英学を学ぶ
・慶応 元 (1865 ) 長崎に英学塾「致遠館」を設立。
         「第二次長州戦争」
・慶応3年 (1867 ) 副島種臣とともに脱藩→イギリス艦で江戸上京。
         「大政奉還」
推測・・・・・・この折に、東京の綾部新五郎に世話で、
大隈重信は小栗上野介に会ったったのではないだろうか?


慶応 4年 (1868) 閏4月4日 ★小栗上野介の斬首42歳

・明治元年(1868 ) 明治政府に出仕・・徴士参与・外国事務局判事
      浦上信徒事件→英公使パークスと論争(対英外交文書)
      「戊辰戦争・五ケ条の御誓文」
三枝綾子は没落した実家を助けるために芸妓になっていた
  った(伝)。井上馨夫人:武子とは同僚だった(伝)。

●●●シャルミラさんよりの指摘
 「大隈綾子夫人が芸妓だったというのは俗説です。
  高村光雲著「幕末維新懐古録」岩波文庫
 を参照してください。」とのこと、
・・・11月10日
 ★新情報を下さり、ありがとうございました。
  下記、参照。


明治2年(1869)春 小栗道子夫人&国子は会津→東京→静岡へ。
  静岡に徳川慶喜に従って、小栗又一の実家の旗本:駒井家や
  道子夫人の妹:はつがとついだ蜷川家が神田から移住して
  いたからである。でも、小栗の夫人らはすぐに東京に戻った。
  ※三井家大番頭:三野村利左衛門の保護を受けた。
  三野村は若い頃、小栗家で中間奉公をていた。その後、神田
  に店を出した。小栗上野介の紹介で三井組に採用された。
  三井も三野村によって幕府崩壊の際に生き延びたのだ。
  だから、義理深い三野村は危険を犯してまでも小栗の家族の
  面倒を死ぬまでみることにしたのだ。・・・8年間も。


明治2年 (1869 )32歳で三枝綾子と結婚。築地に転居(築地梁山泊)
         大蔵大輔となり鉄道敷設・財政改革を推進。
         「版籍奉還・箱館戦争」
・明治3 年(1870 ) 参議。 「全国一致之論議」提出。
・明治5 年(1872)   博覧会事務局総裁(博覧会・共進会)
         「鉄道開通・太陽暦採用」
・明治6年(1873)   参議兼大蔵卿 「征韓論で西郷らが下野」
・明治7年(1874)    台湾蕃地事務局長官を兼務・
         民撰議院建白 
          佐賀の乱・・・・江藤俊平死刑
明治10年1877年2月21日 三野村利左衛門が死亡。
大隈重信は、三井組の総支配人:三野村利左衛門から、
 臨終時に小栗の未亡人:道子と遺児の国子の保護を託さ
 れた。大隈の保護下で遺児:国子は嫁ぐまでの9年間、
 三野村家の助情金で育てられた。

 
 大隈重信の妻が小栗上野介の従兄妹:綾子という理由
だけではない。三野村は大隈とも表裏で繋がっていた
のではないかと推測できる。しかし、根拠がない。

  
・明治10年(1877)  西南戦争征討費総理事務局長官を兼務

・明治11年(1878)  地租改正事務局総裁を兼務
          「大久保暗殺事件」
・明治14 年(1881)   国会開設意見書提出
         参議辞任 下野・・・明治14年の政変
     「開拓使官有物払下事件・国会開設の勅諭・福島事件 」
・明治15年(1882)   立憲改進党を結成 総理(党首) 
         東京専門学校(早稲田大学)を創設
●明治19年(1886年)12月 矢野貞雄は大隈重信や矢野龍渓の
  強い勧めにより、小栗上野介忠順の娘:国子と結婚。
  婿養子として小栗姓を継承。第14代小栗貞男になる。
つまり、大隈重信は小栗家を再興させたことになる。
  大隈重信門下:矢野龍渓・・・「経国美談」の作者。
  後に宮内庁式部官、清国大使などを務めた。
 
・明治20 年(1887) 伯爵
・明治21年(1888) 伊藤内閣・黒田内閣の外務大臣に就任 
         条約改正交渉
・明治22 年(1889) 玄洋社員来島恒喜の投じた爆弾により負傷
         →右脚切断。外相辞任  
         「大日本帝国憲法発布」
・明治27年(1894〜1895) 「日清戦争」
・明治29年(1896) 松方内閣に外務大臣として入閣(松隈内閣)
      松方正義は大分県日田の知事であった。
      矢野龍渓・貞男とは同じ大分県の出身である。
・明治31 年(1898) 初の政党内閣を組織→首相(隈板内閣)
明治31 年(1898)小栗貞男は第6回衆議院議員総選挙に大分県
   第2区から憲政本党公認で出馬→衆議院議員一期を務めた。

明治33年(1900)年 小栗貞男は商用にて清国に渡航
・明治35 年(1902)   東京専門学校を早稲田大学と改称
・明治37 年(1904 〜1905)「日露戦争」
・明治39年(1907)    政界引退 早稲田大学総長に就任
・明治41年(1908)   大日本文明協会設立。
・明治43年(1910)   白瀬南極探検隊後援会長に就任。
          「大逆事件・韓国併合」
●明治45年(1912) ■東郷平八郎の言葉
東郷平八郎は、連合艦隊司令長官として日露戦争を指揮し
バルチック艦隊を撃破した。
「日本海海戦の勝利は小栗さんが横須賀造船所を造っ
ておいてくれたおかげ」と言ったという。
第14代小栗貞男&第15代小栗又一食事に招待したときの
ことである。・・
・ちなみに、東郷平八郎が小栗貞男にあげた算額は、第16代
小栗又一氏から東善寺住職:村上泰賢先生に預けられた。

・大正3 年(1914)   政界に復帰 第二次大隈内閣組閣 首相となる
          「第一次世界大戦」
・大正4年(1915)  「対華21か条要求 」
・大正 5 年(1916)  侯爵・・・内閣総辞職
・大正11年(1922) 85歳逝去 日比谷で国民葬→護国寺に埋葬
(★まんが大隈重信・早稲田大学図書館Hpなどを参考に編集)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ga_okuma/history.html

【7】市川光一先生の講演会・・平成23年(2011)10月16日
『異文明に学ぶ 遣米使節の若者たち ー渡航記を中心にー』
1)ペリーの来航目的・・
2)77名の遣米使節・・
  半次郎がサンフランシスコ帰国+香港から亀五郎が乗船
3)肥後藩士:木村鉄太「渡米記6巻」・・・小栗上野介の従者
4)仙台藩士:玉虫左太夫「渡米日禄」
市川光一先生に質問・情報提供した。
@佐賀藩から遣米使節には7人同行・・
 島内栄之助=島東西八芳義が記録を残しています。
現在、佐賀城本丸御殿の学芸員が調査中だそうです。
7人をチェックして、市川先生にわたした。
咸臨丸は秀藤何某?・・
A「遣米使節7人の中の誰かが大隈重信に小栗上野介を
 紹介したのではないか?
★「私の予想だと綾部だと思います。」
→市川先生は新情報だと喜んで下さった。
しかし、自分の名前をいうのを忘れてしまった。

【8】小栗上野介の映画・・・また見たい映画。
「またも辞めたか亭主殿〜幕末の名奉行・小栗上野介」

【9】大隈重信関係の本
「明治に名参謀ありて」三好徹著 小学館文庫
「まんが:大隈重信」学研???・・・

【10】東善寺住職:村上泰賢先生
小栗上野介研究のbPは村上泰賢先生であろう。
平成22年(2010)は遣米使節の渡米から150年であった。
咸臨丸の勝海舟より遣米使節の小栗上野介が、世の中に
出るべきであると確信し、私は「咸臨丸をけずる会」
に入会した。

群馬県高崎市倉渕東善寺:村上泰賢先生Hp
http://tozenzi.cside.com/news2011.html

咸臨丸に乗った27人の塩飽水軍の子孫たち
http://www.kanrin-maru.org/press/press2010.html

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タイトル (本文) ブログ名/日時
箕輪初心★小栗上野介M童門氏VS村上泰賢先生TV討論
★平成24年(2012)12月12日(水)の22:00〜23:00の BSーTBSの『ライバルの光芒』で、勝海舟=童門冬二 氏 VS 小栗上野介=村上泰賢先生の対談のTV放映が あった。司会:高橋英樹氏&アシスタント:加藤シルビア氏 であった。村上泰賢先生って、全国レベルだ。★凄えな。 私は小栗上野介ファンである。できれば、小栗上野介が 造った横須賀造船所が世界遺産になって欲しいと考えて いる一人である。なぜなら、日本の重工業の発展の元に なった場所だからである。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2012/12/18 07:52

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
この間のハンバーグおいしかったよ
またお会いしましょう
3ちゃん
2011/10/25 12:47
私のブログが分かったのですね。
N氏のイタリア旅行の凄さが思い出されます。
私の人のこないブログですので、時々覗いて下さい。
次に会える時を楽しみにしています。
群馬建築界の重鎮:3さんへ
2011/10/25 20:01
大隈綾子夫人が芸妓だったというのは俗説です。
高村光雲著「幕末維新懐古録」岩波文庫
を参照してください。
シャルミラ
2011/11/10 19:45
本の紹介ありがとうございます。
近いうち、本を探して読んでみたいと思います。
   (箕輪初心)
シャルミラさんへ
2011/11/11 06:51
絶版になっているようで、本屋にはありませんでした。
近くの図書館で予約しましたので、1週間後にこの図書館に届くとのことです。
シャルミラさんへ
2011/11/28 17:53

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