城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行

アクセスカウンタ

zoom RSS 箕輪初心★メキシコ旅行「俺&田中勝介&支倉常長」

<<   作成日時 : 2011/08/16 08:02   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 2 / コメント 1

平成23年7月28日の東善寺(群馬県高崎市旧倉渕村権田)の村上先生の
講演で中で、「『明治政府は太平洋を初めて渡ったのは勝海舟である。』
と言ったが、実は田中勝介&支倉常長が既に太平洋を横断していた。」
と、説明していた。

平成13年(2001) 12月23日(日)に私(=箕輪初心)はメキシコに行った。
朝食バイキング{コ−ヒ−、パン2、果物}後、神谷さんと待ち合わせをし、
ホテル発→地下鉄3・地下鉄4・バス。全部で100円位。で散策開始。
画像

@独立記念塔・・・1810年独立を記念して1910年建立・   
 神谷「ブーゲンビリア・カカオは実は、メキシコ原産。」     
A古アステカの収穫儀式・・4人が逆さでロープを回転させながら降りる。  
B国立人類博物館・古代・・人面と頭骨格・アステカ文化・・・
バスでイラルダからソカロへ
Cあらめだ公園
D国立芸術院宮殿・・・総大理石でヨーロッパ調・・壁画・写真展
E青タイルの家・・・・支倉常長が泊まって所
画像

F教会・・・・・・・・支倉常長が洗礼を受けた所
Gソカロ広場・・・・・大道芸
H国立宮殿・・・・・・パスポートが必要。壁画に独立の絵画
Iテンプル・マイヨール(世界遺産)
   ・アステカ帝国の都テノチティトラン
→コスタリカに向かった。ダイビング5日間&雲霧帯散策。
→そして、メキシコに戻った。
Jティオティワカン(世界遺産)
画像

K教会


【1】無名の日本人
  田中勝介以前にも、太平洋を横断した可能性はある。
  多くの日本人がルソン島に渡っている。山田長政など。・・・
・慶長14年(1609) 9月30日 前フィリピン総督ドン・ロドリゴが
  ヌエバ・エスパーニャへの帰任に際、台風のためサン・フランシスコ号
  が遭難し、上総国岩和田村(現御宿町)に漂着し、乗組員317人が
  岩和田村の人達に救助された(死亡・行方不明者56名)。
  サン・フランシスコ号の乗組員に日本人がいて通訳をした(伝)。
画像

  (★フィリピンのマニラのサンデェゴ要塞・・・日本も使用。)

【2】田中勝介(しょうすけ・生没年不詳)達のメキシコ使節団
  歴史上初めてアメリカ大陸に渡り、太平洋を往復した日本人である。
  ・記録が残存する最初の人物。
 ・慶長15年(1610) 京都の貿易商人:田中勝介は徳川家康の命を受け、
   前フィリピン総督ドン・ロドリゴの帰郷に同船し、ヌエバ・エス
   パーニャ(現メキシコのノビスパン)へ向かった。
  メキシコ
画像

  翌年、ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコにより
  派遣された答礼使セバスティアン・ビスカイノ(=エスパーニャ
  国王フェリペ3世の親書を携えて来日。全権大使)とともに戻った。
※使節団・・・・
   アロンソ・ムニョス神父は徳川家康の使節としてエスパーニャ本国へ
   3名・・・ヌエバ・エスパーニャに残り、
   17名・・田中勝介などが日本に戻ってきた。。
  ※エスパーニャとの通商を試みての渡航であったが、通商に関しての
   具体的合意には至らなかった。合意には至らなかったのは、
   ビスカイノと大御所徳川家康との間で行われた協議の結果であり、
   田中勝介の責任ではない。
  ※徳川秀忠に五色羅紗と葡萄酒を献上した。
      (★ウキペディア参考に作成)
 
【3】支倉常長のローマ使節団
   メキシコ→スペイン→ローマ使節団
  ・元亀2年(1571)山口常成の子として生まれる。
           伯父:支倉時正の養子となる。
           時正に実子:久成が生まれたため、
    伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。
 ・文禄・慶長の役・・・朝鮮に渡海。足軽・鉄砲組頭として活躍。
  ・大崎(大崎城)の一揆の鎮圧
  ・葛西(上総葛西→藤原秀衡攻撃←石巻城)一揆の鎮圧。
・慶長14年(1609)前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行が
   ヌエバ・エスパーニャ(現メキシコ)への帰途台風に遭い、
   上総国岩和田村(現在の御宿町)の海岸で座礁難破した。
   地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムス
(三浦按針)の建造したガレオン船を贈り、ヌエバ・エスパ
ニャへ送還した。これがきっかけに、日本とエスパーニャ
(スペイン)との交流が始まった。
  幕府→伊達政宗の命を受け、支倉常長は遣欧使節
   正使・・エスパーニャ人のフランシスコ会宣教師:ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)   
副使・・支倉常長。
   遣欧使節として通商交渉を目的に180人余のリーダー
   スペインを経てローマに赴くことになった。
 ・慶長17年(1612)第一回目の使節団として
   サン・セバスチャン号でソテロと共に浦賀より出航。
   暴風に遭い座礁し遭難。
・ 慶長18年(1613)9月15日(太陽暦10月28日)2回目の挑戦
画像

  (★厳密には出航はここではない。この明かりは3月11日に消滅した。〜
   石巻で建造したガレオン船:サン・フアン・バウティスタ号で
   ○石巻の月ノ浦を出帆。〜〜〜〜太平洋〜〜〜〜。
   ○ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)の太平洋岸のアカプルコ
   ○現メキシコシティー・・・
     ★支倉常長が洗礼を受けた教会
画像

     ★支倉常長の泊まったホテルが残存。
   ○陸路大西洋岸のベラクルス→〜〜〜大西洋〜〜〜〜。
   ○エスパーニャ(スペイン)コリア・デル・リオに滞在
   ※慶長遣欧使節団はスペイン南西の都市セビリア近くにある
   港町コリア・デル・リオに長期滞在した。支倉常長の銅像がある。
   ハポン(Japón=日本)姓&Xapón姓の人が数百人住んでいる。
   この使節団の中で日本に帰らず現地に移住したキリスト教徒の
   仙台藩の侍や使節の現地人水夫などの子孫であると言われている。
   平成6年(1996)に駐スペイン日本国大使:坂本重太郎が
ハポン姓650人や使節ゆかりの東北地方の裏千家メンバー
   などを集めた「ハポン・パーティー」をセビリアで開催した。
(TV報道・世界不思議発見で放送)
  
  
  ・慶長20年(1615)1月30日(太陽暦1月2日)
    エスパーニャ国王フェリペ3世に謁見。(★写真は一眼レフでだめ)
    →スペインとの交渉は成功せず。
   ○イタリアのローマに。
画像


  ・元和元年(1615)11月3日(太陽暦9月12日)
   ローマ教皇パウルス5世に謁見。
画像

   ※出国直後から日本国内でのキリスト教環境は急速に悪化。
※伊達政宗の手紙・・・常長の帰国後の扱いを危ぶむ手紙
  ・元和6年(1620)8月24日(太陽暦9月20日)帰国。
      ※キリシタン追放令=禁教令・・・踏み絵
  ・元和8年(1622) 失意のうちに死去。
・寛永17年(1640)息子の支倉常頼は召使がキリシタンで
    あったことの責任を問われて処刑され、支倉家は一度断絶。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
西暦1613年 - 慶長遣欧使節団が出発
年表を改めました。 ...続きを見る
ぱふぅ家のホームページ
2011/12/07 15:22
箕輪初心★松尾芭蕉21『奧の細道』J【松島〜】&志津川ダイビング
★平成23年(2011)3月11日、東日本大震災が起こった。 福島・宮城・岩手・青森が特に被害が大きかった。松尾芭 蕉が通った場所としては武隈の松・名取川・多賀城・塩竃 ・松島・石巻・(南三陸町)などが甚大な被害を受けた。 松尾芭蕉もこんな大きな地震が起こるなんて思いもしなかっ たであろう。なくなった方に哀悼の意を表するとともに、 精神的・肉体的・経済的な被害など受けた方々にエールを 送りながら、この地域を通過させたいただこうと思う。 ...続きを見る
城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー...
2012/08/08 06:54

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
Hp、少し拝見させていただきました。年表が凄いですね。人物写真も楽しいですね。時間がある時に、拝見させていただきます。
ぱふぅ家のホームページ様
2011/12/09 06:19

コメントする help

ニックネーム
本 文
箕輪初心★メキシコ旅行「俺&田中勝介&支倉常長」 城・陶芸・ハイキング・ダイビング・スキー・旅行/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる