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zoom RSS 箕輪初心★★小栗上野介G「道子夫人の逃避行と北越戦争&会津戦争」

<<   作成日時 : 2011/08/14 16:02   >>

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小栗上野介の道子夫人は、会津の横山主税を頼ろうと道を急いだ。
横山は、小栗又一からフランス語を習い、母や道子夫人・よき子などとも
顔見知りであった。旧倉渕村権田→東吾妻町(旧坂上村)→旧六合(くに)村
→野反・地蔵峠→秋山郷→ 十日町→小千谷→長岡→燕→中之島→新潟&
法音寺墓参を済ませた。

後半は新潟→阿賀野川沿い・・・→水原→津川→会津若松へ・・出産・・・
コースを辿るとともに、戊辰戦争の激戦:北越戦争&会津戦争を見ることする。

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・慶応4年(1876) 4月20日頃・・・夫人が中条村(十日町市中条)にいる頃。  
道子夫人の護衛の村人の一部は会津軍に加わった。
    
 ○会津藩は魚沼を越後口の要として総督一ノ瀬要人らの部隊を派遣。
  町野源之助(主水)は慶應4年に小出島郡奉行として赴任。
  夫人の護衛の佐藤銀十郎&塚越冨五郎が町野隊に合流。
  町野源之助達は小出町の諏訪神社で武運長久を願った。
  小出島陣屋から町野配下として佐藤銀十郎&塚越冨五郎が出兵・・・
  小千谷陣屋(=会津藩預所)と小出島陣屋に主力が三国峠へ。
  
  △西軍は沼田から三国峠に進軍 
  ○群馬の永井宿・・先兵隊:町野源之助(主水)軍逗留。
 「西軍に宿を貸すな。」と頼んだ。

  @三国戦争・・・群馬の三国峠下の永井宿近くから始まった。
    町野源之助の弟:町野久助ら3人戦死。
  ※町野久助の供養塔・・・途中のトイレ休憩所西30mの場所
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  △東山道先鋒総督府軍に敗れ小出島に撤退。
4/26
  A六日町の戦い・・・
  ○衝鋒隊を破られ、敗戦。
  4/27
  B小出島(新潟県小出町)の戦い・・銃撃戦 
   佐梨川の井深宅右衛門隊 VS 西軍
   →小出市中での白兵戦が町野源之助・山内大学等は白兵戦に敗戦。
   佐藤&塚越は町野・山内大学等と共に奮戦。
   →六十里越えから叶津へ撤退。
  ※会津藩烈士之碑・・・小出諏訪神社境内に建立。松平保定氏書。
 
■長岡の戦い・・・佐藤・塚越は参加していない。
  河井継之助は長岡藩主:牧野伸顕藩主らを長岡へ帰させ、江戸藩邸
  ・家宝などをすべて売却した金で米を買って函館へ運んで売ったり
  新潟との為替差益で儲けたりし、軍資金を増やした。
  スネル兄弟などからガトリング砲やフランス製の2000挺の最新式銃
  などの最新兵器を購入し、海路長岡へ帰還。
 (※ガトリング砲は日本に3挺あるうち、河井継之助が2挺保持。)
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   (★長岡博物館の大砲)  
 
西軍は会津藩攻撃のため、小千谷(現新潟県小千谷市)に迫った。
  
 河井継之助は抗戦・恭順を巡る藩論を抑えて一藩武装中立を主張。
 
 5月2日(太陽暦6月21日)河井は小千谷の西軍の本陣:慈眼寺で
  軍監:土佐の岩村精一郎と会談。
  △岩村「会津攻撃に加われ・・・。」の一点張り。
  ○河井「どちらにも味方しないので、素通りしてくれ。」
  →交渉は30分で決裂。
 ○河井継之助は長州:山縣狂介か薩摩:黒田了介を交渉相手に望んでいたが、
   岩村だったので、「想定外」だった。
  △西軍も岩村が河井継之助をそのまま帰してしまったので大失敗だった。
 
 →長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わった。
 
 5月2日 北越戦争の開戦
 長岡藩は7万4千石(実質約14万石)。長岡藩主の絶対的信頼の下に、
  河井継之助は開戦の全権を掌握。継之助は家老上席、軍事総督。
  長岡藩兵は近代的訓練と最新兵器武装&継之助の用兵戦術により
  新政府軍の大軍と互角に戦った。
 
  しかし絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始めた。

 5月19日(太陽暦7月8日)に長岡城を奪われた。
 6月2日(太陽暦7月21日) 今町の戦いで逆襲に転じる。
 7月24日(太陽暦9月10日)八丁沖渡沼作戦を実施
 7月25日(太陽暦9月11日) 長岡城を奪還。
  河井継之助は左膝に流れ弾を受け重傷を負った。
  指揮官の負傷&陸路からの米沢藩兵の遅れにより、新政府軍への大打撃を
  与えるという作戦は完遂できなかった。

 7月29日(太陽暦9月15日) 長岡城は再び陥落。
  →河井継之助らは会津へ落ちのびた。
 
 △戊辰戦争を通じて最も熾烈を極めた北越戦争は西軍の勝利になった。
 
  河井継之助は「八十里 腰抜け武士の 越す峠」という句を詠んだ。
 8月12日(太陽暦9月27日)塩沢村(現福島県只見町)に到着。
 8月16日(太陽暦10月1日)河井継之助は破傷風により死去。42歳 

【15】会津の湊屋善兵衛宅泊
閏4月28日

【16】会津の横山邸
  閏4月29日 小栗夫人らが到着。
  会津・・・横山主税常忠の家族に迎えられて保護された。
  ■横山主税は、パリ万博行きの為、小栗又一からフランス語を
習った。母や道子夫人・よき子などとも顔見知りであった。
慶応3年のパリ万博の使節:徳川昭武に同行。
   会津藩士:海老名郡治とともにフランスに遊学。
   家老:西郷頼母の副大将として若年寄:横山主税21歳
   は白河口に進軍。(閏5月1日に戦死。)
  ●5月1日宿泊するはずの横山主税の戦死

首が届けられた。 
   会津藩主:松平容保と横山邸で横山の首に面会した。
   
  ・小栗護衛副大将の中澤兼五郎は尾瀬戸倉越えで夫人と会った

【17】会津若松城に籠城・・・夫人道子も籠城
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【18】南原:家は不明。
6月1日  
  藩主:松平容保のアドバイスでの小栗夫人らは横山家を出て、
  南原の野戦病院の農家へ避難。



6月10日
   道子夫人は南原の避難所で女児を出産。
 「国子」を出産。・・・小栗上野介の唯一の遺児である。


西軍の侵攻
【1】下野→・・・・・・・白河口
    小栗護衛副大将の中澤兼五郎は尾瀬戸倉越えで夫人と会った。
@白河口の戦い
 ・慶応4年(1868)閏4月20日 (太陽暦6月10日)白河城を占領。
  ○白河藩は国替えにより藩主不在で幕府直轄領であった。
  会津軍は会津藩家老:西郷頼母を総督。横山主税を副総督である。 
   
 ・閏4月25日 (太陽暦6月15日) 
  △△西軍は、薩摩藩参謀:伊地知正治の指揮で白河への攻撃。
 ・5月1日(太陽暦6月20日) 白河城を落城。
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   (★白河小峰城)
  会津軍は約3ヶ月間、白河奪回を試みて戦闘を繰り返した。
 
 
 ・慶応4年(1868)6月24日(太陽暦8月12日)棚倉城が落城。
  7月16日(太陽暦9月2日) 三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退。
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       新政府軍が北上。
 A二本松の戦い 
 ・7月29日(太陽暦9月15日)西軍は二本松城を攻撃。
      二本松城は落城。
      二本松藩主:丹羽長国は米沢へ逃れた。
      二本松少年隊のうち、木村銃太郎率いる20名は攻城戦で戦死。
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(★二本松城&少年隊の像)
      ★会津戦争の白虎隊同様、悲劇のひとつとして語り継がれた。

 B若松城攻撃
  西軍では、攻撃目標に関して意見が分かれた。
   @大村益次郎・・・仙台・米沢の攻撃を主張。
   A板垣退助と伊地知正治・・・会津藩の攻撃を主張。
   →板垣・伊地知の意見が通り、会津藩を攻撃と決定。
   二本松から若松への進撃ルート・・脇街道で手薄な母成峠と決定
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   (★猪苗代ふるさと歴史館&猪苗代城)
  ・慶応4年(1868) 会津城下も戦火が迫ってきた。・・・
  ・8月21日(太陽暦10月6日)母成峠の戦い
    西軍 VS 会津軍 ・・・結果、西軍勝利。
  ・8月23日(太陽暦10月8日)朝に若松城下に突入。
    西軍の侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は
    予備兵力の白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。
  ※西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や
   妻子など一族21人が自刃した。
  ※城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中
   二番隊の隊士の一部は飯盛山で自刃した。  
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  (★飯盛山の白虎隊の墓)
   最年少の飯沼貞吉のみは蘇生し昭和6年(1931年)まで生きた)。

 ■会津藩は若松城に篭城して抵抗。


【2】上野の尾瀬戸倉→日光口・・田島・・・大内宿→大内峠へ
  8月23日、白河口の西軍は母成・滝沢峠を突破して若松城下に突入。
若松城を完全に包囲攻撃するためには兵力が不足であった。
  越後口・日光口の西軍を一刻も早く若松に到達させる必要があった。

9月1日 中澤兼五郎・塚越房五郎は関山で会津軍に合流
  ○大内宿の西軍を攻撃。
  △西軍は、これに反撃しつつ大内峠に向った。
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    (★大内峠下の石畳)
  ○会津軍の攻撃で、宇都宮藩士4名が戦死、6名負傷者
    を出してその日はひとまず 大内村に退いた。
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 9月2日早朝
  △西軍は再び進撃を開始。
  ○会津軍の徹底的な抗戦にあい、氷玉峠から進むことができなかった。
   軍監:中村半次郎は直接指揮をとる
 9月3日 
  ○栃沢を攻略し、関山に進出。
 9月4日
  ○西軍は会津軍陣地に突入、ついにも関山に火を放って退去
   関山から本郷へ進攻。
  ○会津軍・旧幕府兵の戦死者は、
    青龍足軽三番隊中隊頭の野村悌之助など約40名。  

【3】上野:三国峠→・越後口小出&三条一の木戸・・・
  津川陣屋→野沢(西会津町)→陣屋見頃→岩沢→宮在家→慶徳まで進攻。

 ○会津軍はは支えきれず退却。
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  (★喜多方に西軍が入ってきた。まず、ラーメンだ。)
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  (★喜多方市街から最上街道へ向かって5分で激戦地に着く。) 
 9月10日 
  濁川に戦い・・・勝敗もつかず。弾丸補給のため熊倉に退却。
 
 9月11日 
  関柴中里(喜多方市関柴町)の攻防・・激しい戦闘。
    会津軍は、中里近くの林に身を隠して、
     松代藩・岩国藩の軍隊に一斉砲火を浴びせた。
     西軍は小田付村に退却。
     会津軍の一隊は小田付村と小荒井村の退路を塞いで挟撃。
     西軍の塩川に向かった一隊が銃声を聞きつけて引き返した。
     西軍は上高村で側面から鉄砲を浴びせてきた。
     会津軍は熊倉に撤退。
  ●熊倉の戦い・・・佐藤銀十郎(21)戦死。
     築地講武所でフランス式陸軍の訓練を受講し、
  熊倉の戦いで用水堀の中で待ち伏せし攻撃するやり方を指導。
   ※佐藤銀十郎の墓
     (喜多方市熊倉喜多方市熊倉の熊倉小の北の農道沿い)
    喜多方から熊倉のJA手前を左折。小道を左折。
    (★2〜3分の場所に2回来ているが、行ってないのが残念。)    
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(★北塩川村の網取城から車で3分)
  ●塚越冨五郎の戦死・・ 
   道子夫人の護衛隊→会津藩の朱雀誠志隊に入って転戦。
   西会津の耶麻郡一竿(ひとさお・喜多方市高郷町萩野)の戦いで、
   胸を撃たれて戦死。

 
 9月13日 下荒井→中荒井
 9月14日 城南一ノ堰村に移動

■9月22日 松平容保が降伏。
  会津戊辰戦争・・・会津軍の降伏で終わった。

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   (★会津武家屋敷のポスター)

【18】松川村(田島)家は不明
  出産後、難を避けるためか松川村で冬を迎えた。
  *南原、松川ともどこにいたのか詳細は不明。

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   (★会津田島の鴫山城前の郡役所)
 
・明治2年(1869) 春、会津→東京

【19】東京
建部家が西軍を気にして×
小栗家は土方久元がいて×
  小栗道子夫人達は三井家大番頭:三野村利左衛門の保護を受けた。
(小栗が金平糖売りの頃から面倒をみていた。)
  ★三井→三越デパート
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  (★東京駅)

・明治10年(1880) 三野村が55歳で死亡。
   →大隈重信が「国子」を育てた。

【20】静岡
  ※静岡には、徳川慶喜に従行した
   @小栗又一の実家の旗本:駒井家
   A道子夫人の妹がとついだ蜷川家・・・などの身内がいた。
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  (★駿府城)
  ・護衛隊4人は小栗道子夫人らを送り届けて村へ戻った。

【21】東京:
 明治19年(1889) 夫人道子死亡。

クニ子は大隈重信に育てられた。

その後、 成人して、
前島密の媒酌大分県の矢野程蔵3男:貞男と結婚。


【●】「お首級(くび)迎え」
  中島三左衛門達は、小栗上野介父子の首を館林の法輪寺境内
  から盗み出し、東善寺裏山の胴体と一緒にした。


(★参考文献・・・みやま文庫『小栗上野介』(市川・村上・小板橋共著)

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