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zoom RSS 箕輪初心◆◆「労農:船津伝次平」&剣豪:疋田文五郎

<<   作成日時 : 2011/06/11 06:43   >>

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船津伝次平は「日本の明治三大労農」と言われている。
上毛かるたでは、「労農 船津伝次平」である。
●飢えと貧困に苦しむ農民のために努力した偉人である。 
@「太陽暦耕作宇一覧」A「裁桑実験録」「養蚕簾状方法」
「養蚕の教え」B「韮耕作法」C「ゴボウの栽培法」
D「稲作小言」E「石苗間」などの役立つ研究をした。
○沖縄県以外の全国行脚。20年間で137回の講演会。
○東大農学部(筑波大学)で8年教授。・・・★凄すぎる。

【1】 船津伝次平の生家
【2】 船津伝次平の墓
   群馬県富士見村(現前橋市)原之郷   
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【3】 船津伝次平の銅像
  旧富士見村役場=現前橋市田島の富士見支所
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【4】横室の萱・・・樹齢1000年以上。 
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【5】九十九山→古墳→引田城の出城:九十九城(旧富士見村)
  船津伝次平の墓から150mの所にある。
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★剣豪:上泉伊勢守秀綱(→信綱)の第一弟子:引田文五郎
=引田豊五郎=疋田景兼(かげとも)=疋田小伯(虎伯)。
 晩年には、=疋田栖雲斎(せいうんさい)。
  加賀国石川郡生まれ。上泉信綱の姉の子=甥(伝)。
上泉秀綱に剣術を学ぶ。赤城山で剣術の修行に打ち込む
  上泉信綱の生活の世話をした(伝)。
  上泉信綱に従って長野業政(上泉秀綱の姉は妾=引田の義理の兄)
  の同心として、箕輪城に逗留。
 永禄6年(1563)畿内随一との評判が高かった柳生宗厳と信綱の代わり
   に立ち会い三度とも全て勝った。(伝)
★この時代には、上泉伊勢守は、まだ、旅には出ていない。
 永禄9年(1566)武田信玄との戦さで活躍する。
  長野業盛が自害して、箕輪城が武田支配になる。
  上泉秀綱は武田信玄の一字をもらい、上泉伊勢守信綱となる。
  武者修行に出た上泉信綱に同行した。
 ■永禄13年・元亀元年(1570)
 1月3日 信玄→和田兵衛大夫(高崎和田城)への書簡
  A跡部信秋と春日弾正を上野国境に派遣B内藤と相談するよう指示。・・・      
   内藤が既に箕輪城にいた。 (群馬県地域文化233栗原修)
 9月7日 
  上杉方の北条高広(前橋城)→山吉豊守(上杉家家老)に当てた書簡
  @上杉輝虎(謙信)が上田(坂戸城)に着くと聞いてうれしい。
  A武田信玄が岩村田(佐久)に着陣し、箕輪城主内藤修理亮が出迎えた・・
  Bはやく、上杉輝虎の御出場が肝要。(群馬県地域文化233栗原修)
 9月10日 家老内藤豊後守昌秀(昌豊)が現地統治。
  (初めての文書確認=秋本先生)
  (工藤姓→内藤姓/内藤豊後守昌豊が上州7つの郡代。)
  永禄2年〜永禄11年まで、工藤源左衛門尉で松本城に在籍
@内藤豊後守昌豊が上州7郡代・・在地領主領国安堵状(生島足島神社蔵)
 「安中・小幡一族・後閑・一宮・高田・高山・和田・松本・馬庭・酒井
  ・【依田】・桃の井・富所・猿渡・荻原・須藤・小沢・市川・神保・土屋
  ・高橋・黒沢・高瀬・上条・武河・南蛇井・伴野・尾崎・湯浅・」
 *内藤豊後守昌秀(昌豊)自分の家臣50騎
      +長野氏の元家臣200余人=約250騎
  「美方民部左衛門勝業、道寺久助、町田兵衛義信、神尾図書兼?、
  ●上泉伊勢守秀綱、寺尾豊後守長成、長塩長八郎道方、八木原伴七家方、
  久保島重蔵時頼、矢島久左衛門定勝など。配属:大熊伊賀守(高浜砦)、
  新井筑後守(三ッ子沢砦)、内山播磨守(白岩砦)、
  清水太郎左衛門(和田山砦)、青柳治部(下芝砦)
 ※内藤豊後守昌秀に大熊備前守・塚越半七・吉田伊豆守は反攻。
              (箕輪記→山崎一著「群馬の古城」) 
*元亀元年(1570) 内藤昌秀が箕輪の出城の保渡田城を築城。
     善龍寺を再建。→菩提寺。 (みのわの歴史=近藤先生)
*元亀3年(1572)1月 武田信玄が関東出陣 
 ・謙信、関東に出撃。箕輪城の出城:石倉城(前橋)を攻略。
 ・春日虎綱(高坂弾正)の指示で真田幸綱が箕輪城出陣。謙信と対峙。
★当然、石倉城に近い上泉伊勢守(小泉城)&疋田文五郎(引田城)
 は、出陣の可能性が高い。
■天正3年(1575)5月 内藤昌秀が長篠の戦いで戦死。

 元亀元年→武田信玄の家臣:内藤豊後守昌豊の家臣になることが、
 信濃:生島足島神社の起草文に掲載されている。
★ 従って、疋田&柳生との試合は
  永禄9年(1566)~元亀2年(1571)の可能性が高い。
*後に、疋田文五郎は上泉信綱(上泉伊勢守)が創始した新陰流の流れを
 組み、後に、疋田陰流剣術と新陰疋田流槍術の開祖となる。



船津伝次平の年譜
天保4年(1833) 10月1日(現前橋市)富士見村原野郷の農家の子
           として生まれる。幼名は市蔵。
天保9年(1836)6歳〜 父:船津午麦(ごばく)が寺子屋を開始。
           
少年時代・・・・
 1)学問・・・父:船津午麦(ごばく)。
 2)最上流の和算・・・隣村の?
 3)剣術・・剣豪:星野房吉実妹の嫁ぎ先:森田門下。
 ★考察・実験農業・・・物事を深く考える性格だった。
  @石苗間の工夫・・・・・・後の石垣イチゴ(静岡県)
  Aエンドウの種の実験・・・いつ発芽するかの観察。
  Bナスの作り方の実験・・・油かす・米ぬか・ふすまの打ち、
               一番いい肥料は油かす。
 
 4)俳句・・・藍沢無満(前橋市上小出)。
  門人は俳諧師:小淵幻亜、政治家の根井行雄、数学者:萩原禎助

嘉永2年(1849)19歳
 4)最上流和算・・下野足利(現栃木県足利市小俣町)の大川茂三郎。

嘉永3年(1850)19歳
 5)和算・・・斉藤宣義(現群馬:玉村)
   ・・・他の労農と違うところは数字で表記。
  16kmを毎日通学。(富士見→前橋→玉村)   
   関流の免許皆伝。
嘉永6年(1853)22歳  ペリー来航@
 「太平の 眠りをさます 上喜撰 たった四杯で 夜もねられず」

嘉永7年(1854)安政元年23歳 ペリー来航A→日米和親条約の締結。
安政2年(1585)24歳  工夫研究の農業
 C自然薯の研究・・・「板を斜めに置き、浅く育てる実験」
  ・後継者が種なしスイカ・野菜の促成栽培に応用。


安政3年(1586)25歳  ハリス下田に来航
  ・関流の算額を赤城神社に奉納。

安政4年(1587)26歳 ハリス江戸城で将軍と謁見
  D陸稲の草むしり・・根本付近の草をむしり、土をかける。  
  ・家督を継ぎ、市蔵から伝次平になる。

安政5年(1588)27歳  井伊直弼が大老。・・・
  ・下田奉行:井上清直と目付:岩瀬忠震(ただなり)を罷免。
  ・日米修好通商条約・将軍は一橋慶福 ・安政の大獄
  ・開港・・・横浜・長崎・函館
 ■富士見村の名主。
 原之郷と横室の水争い→
 E赤城山に松3万本植林・・水の源を確保。
 F大沼用水・・船津の計画→木村与作が継承→樺沢政吉が完成。


安政6年(1589)28歳  寺子屋「九十九庵」の先生。
   寺子屋の教科書・・「村名尽」・「国尽」・「百姓往来」
  
安政7年(1860)万延元年(1860)29歳
   寺子屋の教育法・・「手習仕付方教訓書」・「伊呂波異見」
  いかに子供よ  ききたまえ
  ろくに手習いせぬ人は
  はじをかくこと多いいぞ

文久元年(1861)30歳
  G養蚕業に従事。「正月の松飾りに心松(松の主幹)を使うな。」

文久2年(1862)31歳
 ●俳句好きの船津の梅の俳句
 「みのる気で 寒さ忍か 梅の花 」
 「梅が香や  たびたび風呂を よびにくる」
 「氷ったり 解けたり梅の かげばたけ」
 「起き伏しも かろきこころや 梅のかげ」
  
文久3年(1863)32歳
  ●寺子屋の遠足・・・
  「どんな物を見てきましたか?」
  「畑に何が作られていましたか?」
  @農業関係・・・栽培している物・土壌の様子・木の枝振り・風の向き・
  A農家の造り・・藁葺き農家・茅葺き農家・・
        ・後に「赤城型農家」と命名された。
        ・養蚕用に屋根の前を一部切り落として、
         採光・風通しを工夫。
 
文久4年・元治元年(1864)33歳
  ●船津「田畑は多く所有すべからず」・・
      ・金は一軒で持ちすぎるな〜〜〜
 *雇い人は2人程度が上限。・・
  ・山形県の「本間家は異常?」とは言っていないが。 

慶応元年(1865)34歳
 ●船津家の家訓
 1)金貨と商法はなすべからず
 2)終わりの疑わしきことは着手すべからず
 3)農業雇い人2人・馬一匹・・・・
 4)稽古事は、冬・春。〜〜〜。

慶応2年(1866)35歳
    ●関流の和算の弟子を産出。

慶応3年(1867)36歳
 ■富士見村の名主2回目。
 ●船津家  田・・・1反9畝  畑・・・8反7畝

慶応4年・明治元年(1868) 37歳 明治維新
  10月 前橋藩主:松平大和守から35村の大総代を任命。
     ・髷を切っても、カツラをかぶれと命じられた。

明治2年(1869)38歳

明治3年(1870)39歳  3月 大総代を辞任

明治4年(1871) 40歳 ※第一次群馬県

明治5年(1872)41歳
  ●小学校設置方学務掛・・・原之郷小学校の設立。
  (初代校長斉藤近三は、後に船津と駒場農学校に赴任。)

明治6年(1873)42歳
  ●地租改正で、第3区66ヶ村の地租改正用掛の要職。
  畑を△にも計算法を用いた。「木盤小方機」を制作させ、測量を指示。
  →県令楫取素彦に認められた。
  ※第一次群馬県→熊谷県(群馬・入間)
 ●「養蚕簾状方法」を発刊。
 ●「太陽暦耕作宇一覧」を換算。 (前年に太陰暦から太陽暦に変換)
 ●「里芋栽培法」を講演。


明治7年(1874)43歳
 「太陽暦耕作宇一覧」が熊谷知事代理:津田要より表彰。 
 明治6年6月〜9年8月20日までの太陽暦農事暦を熊谷県に送る。
 ●「太陽暦耕作宇一覧」を発刊。(群馬県史:資料編24を参照)
 ●津田要→大久保利通・木戸孝允・・
   西洋農具3点(フォーク・レーキ・ホー)寄贈
 ●船津はフォークを堆肥運びに利用普及(船津家→富士見公民館蔵)
 ●「納税早見」を著作。


明治8年(1875)44歳
 ●「養蚕の教え」を著作。・・・神仏にすがらず、研究せよ。 
 ●富岡製糸工場長:速水堅造が、大久保利通に推薦。

明治9年(1876)45歳 ※第二次群馬県
 ●群馬県知事初代:楫取素彦は船津伝次平に駒場農学校へ
    奉職するよう勧奨。
 ●大久保利通が駒場農学校教諭に選定。
  ※北海道開拓使:クラークの給料・・・・・月給600円
  ※駒場農学校:フェカス(独)の給料・・・月給350円
  ※駒場農学校:キンチ(英)の給料・・・・月給416円
  ※駒場農学校:ケンネル(独)の給料・・月給300円
  ※船津伝次平の給料・・・・・・・・・・・・・・・月給 30円
★5人の外国人(船津の月給30円・外国人は300円)より
   稲作は上手だった。


明治10年(1877)46歳
  ・10月23日 大久保利通(内務省)より正式通達。 
  ・10月24日 内務省ご用掛・勧農事務取扱。
  ・労農120人の集会 

明治11年(1878)47歳
 1月1日 東京駒場農学校(現東京大学農学部)教師
     大久保への話「ニラは雀の口の中のとげ抜きに効能。」
  ・大久保利通の来訪・・「駒場野や ひらき残りに くつわ虫」
 
  東京駒場農学校(東京農工大学→東京大学農学部前身
       →筑波大学)教師。
  日本の農業担当・・・・・船津伝次平
  イギリスの農業担当・・ベクビー  
  ・5月11日 大久保利通が殺害される。→船津号泣。
 ●「韮耕作法」を著作。

明治12年(1879)48歳
 ●「農家の薬」を著作。

明治13年(1880)49歳
 ○兵庫・滋賀・岡山で講演会

明治14年(1881)50歳
 ○岐阜県で講演会 ○千葉県で講演会
 ●「農業問答」を著作。

明治15年(1882)51歳 ○高知県で講演会

明治16年(1883)52歳
 ●「裁桑実験録」を著作
 ●「御飯の炊き方」和算に基づいた科学的な炊飯法(現在とほぼ同じ)


明治17年(1884)53歳
 ●「里芋栽培法」(有隣堂)の刊行。・・里芋は横に植える。 
○福岡・熊本・鹿児島県で講演会  ○徳島県で講演会

明治18年(1885)54歳
  ■農商務省農事試験場技師として
   改良指導・農業講演会・・・木魚でチョボクレ節で講義。
 ○長野県での講演会「ナスの作り方・・油かすを肥料にするとよい。」
 ○長野県での講演会「稲作・・魚をかい、水車を用いるとよい。」
 ●熊谷県での「桑苗簾伏方法 船津伝次平口授刊 熊谷県蔵 」   
 ■農商務省の大臣:井上馨の大農法と意見が合わず?
 ●「稲作小言」

明治19年(1886)55歳
○熊本県での講演会。○千葉県での講演会。
○兵庫・鳥取・島根・山口・広島・岡山県での講演会。

明治20年(1887)56歳
○静岡県での講演会・・・「石垣イチゴ」
 ○岩手・宮城・福島県での講演会。
 ○静岡県での講演会

明治21年(1888)57歳
 ○群馬県での講演会。
 ○新潟・富山県での講演会
 ●「農事説話集」を刊行。
 ○関東6県+長野県での講演会。
 ○岩手県での講演会・・「果物の節木」「動物の飼育」
 ○鳥取県での講演会●「船津甲部巡回教師講演筆記」(鳥取県)が発刊。
 ○群馬県での講演会12ヶ所。

明治22年(1889)58歳
 ○長野県で講演会→●「巡回教師・農話筆記」(長野県)が発刊。
 ●「ゴボウの育て方」・・・肥料は浅いところに。
 ○静岡県での講演会。
 ○東京上野での品評会の審査員として派遣。
 ○新潟県での講演会。
 ○青森県での米大豆の審査員として出張。
 ○神奈川県での講演会

明治23年(1890)59歳
 ○山梨県での講演会。 ○佐賀県での講演会。
 ○埼玉県での講演会3回出張。
 ○青森・秋田・山形での講演会。
 ○大阪・奈良・三重・愛知・和歌山県での講演会

 ■明治の三労農「船津伝次平・奈良専二(→林遠里)・中村直三」

明治24年(1891)60歳
 ○長崎・愛媛・香川・福井県での講演会。→○大分県での講演会
 ○東京・群馬県での講演会  ○群馬県での長期講演会。

明治25年(1892)61歳
 ○愛媛県での講演会。○千葉県での講演会。○栃木県での講演会。
 ○埼玉・山梨・群馬・東京・群馬県での講演会。
 ○岡山県での講演会。○東京での農談会。
 ○滋賀県での講演会○ 栃木県での講演会 ○千葉県での講演会
 ○愛知・奈良県での講演会。

明治26年(1893)62歳
   ■西ヶ原農事試験所の技師
 ○群馬県での講演会。

明治27年(1894)63歳
 ○福井県での講演会。
 ■農務局勤務。
 ○福井県での講演会。○三重県での講演会。
 ○東京での農談会多数。

明治28年(1895)64歳
 ○静岡県での講演会。○長野県での講演会。
 ●「直枠坪刈用表」を刊行。
 ○栃木・埼玉・群馬・埼玉県での講演会。
 ○京都県での講演会。○新潟県での講演会。○千葉県での講演会。

明治29年(1896)65歳
 ■農事試験場技師
 ○群馬県での品評会・講演会。
 ○神奈川県での講演会。○群馬県での講演会。
 ○石川県での講演会など。

明治30年(1897)66歳
 ○群馬県での講演会多数。

 沖縄県以外の全国行脚。・・・20年間で137回の講演会等の出張。
 ●「韮耕作法及効用」を刊行。

明治31年(1898)66歳
 ■辞職・・・20年間の東京生活に終止符「一家の平和は万業の基礎」
 ・隠居用の家の建築中〜〜〜
 ※6月15日 郷里の富士見村で死亡。
  円龍寺で葬儀。原西の船津家墓地に埋葬。
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明治34年(1901)  ★東京府北区王子の飛鳥山公園に石碑建立。
      額・・・陸軍大臣:彰仁親王 
      文・・・品川弥次郎 
      筆・・・小野■  
      刻・・・井亀泉

大正8年(1919) ★群馬県富士見村(現前橋市)に石碑建立。
     寄付・・・東京大学教授:横井時敬
 
(★資料・参考文献等・・「船津伝次兵衛」(柳井久雄著)がベース。
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