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zoom RSS 箕輪初心●福井「金ヶ崎城」@新田義貞&A木下藤吉郎

<<   作成日時 : 2011/04/20 05:50   >>

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箕輪初心●福井「金ヶ崎城」@新田義貞&A木下藤吉郎
@延元元年(1336)10月、新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて
気比氏治の居城:金ヶ崎城に入城→約半年間、足利勢と交戦。
延元2年3月6日落城。尊良親王・新田義顕(義貞嫡男)以下
300余名が戦死(伝)。

A元亀元年(1570)4月、織田信長が一ノ谷城:朝倉義景討伐を命令。
徳川家康・木下藤吉郎(=豊臣秀吉)等が敦賀に進軍。
天筒山城・金ヶ崎城を落とし、越前に攻め入ろうとした時、近江:浅井
長政が朝倉義景に味方するとの報告。織田信長は窮地。
→金ヶ崎城の殿の木下藤吉郎(秀吉)の活躍で無事帰京(伝)。
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■訪問記・・・
@平成21年(2009)5月4日・・奥の細道「越前・若狭・美濃編」&新田義貞
A平成22年(2010)8月8日・・若狭・丹後・丹波・大和平城京1300年祭

○松尾芭蕉の碑・・・本来の目的達成。
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○石段が続く参道
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○石段を上がっていくと、金ヶ崎宮
 織田信長勢が木の芽峠を越えて、一ノ谷に攻め入ろうとした時、
 お市の方(浅井長政妻&信長妹)から袋の両方を縛った小豆の
 入った袋が届けられた。「袋の鼠」の意味である。
 …(浅井&朝倉が両方から挟み撃ちにするという知らせ)
 ★伝説で、信憑性が薄い。しかし、小豆袋のお守りのお土産は
  縁結びの御利益があると人気がある
。 
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○金ヶ崎城&天筒山城のジオラマ
(左=金ヶ崎城方面、真ん中=天筒山城方面、右=天筒山城)
大河ドラマの影響で、説明パネルがたくさん張ってある。
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○金ヶ崎城碑と金ヶ崎古戦場碑。
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○看板
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○急坂を歩き続ける。
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○月見御殿跡・・・金ヶ崎の最高地86m。本丸跡。
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  ★気持ちいい〜♪。最高の眺めである。
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○三の木戸跡・・水の手。
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 竪堀
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○焼米石出土跡・・・分岐  二の木戸・金ヶ崎宮
 織田VS朝倉の攻防戦で。兵糧倉庫は焼け落ちた。
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○二の木戸跡・・・・分岐   一の木戸・金ヶ崎宮
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 二の木戸の竪堀→
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○一の木戸跡
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※天筒山城が断念
○下山

●新田義貞の最後38歳没」(福井)
★せっかく、新田義貞は京都で足利尊氏を九州に敗走させたのに、
女にうつつをのかし、出陣のタイムリーを逃した。そのため、
京都で勝った戦が足利尊氏の復活を許し、西国で敗戦した。
西国での新田一族の戦死者123名・郎党8000余人であった。
延元元年(1336)
5月27日 ●新田義貞は後醍醐天皇と比叡山に逃亡。
6月3日  ■足利尊氏は京都に入った。光明天皇(北朝)を擁立。
      ■足利尊氏の比叡山攻撃。
6月30日 ●新田義貞が京都に出撃。
8月23日 ●新田義貞が宇治で敗北。
8月28日 ■足利尊氏が比叡山を陥落。
10月10日 後醍醐天皇は足利尊氏と和睦。
      ・・・光明天皇が新天皇になる約束。
      ※後醍醐天皇は隠密裏に足利尊氏に接近。
 →堀口貞満の怒り「新田一族130人・郎党8000余人が死んだ。
 後醍醐天皇へ「新田義貞を見捨てるのか?我々を皆殺しにしてくれ。」
           (太平記)
 後醍醐天皇の越前への下向命令。
    ●新田義貞は後醍醐天皇の王子惟良親王・尊良親王を奉じ、
        ・脇屋義助の領地越前へ
    ■越前では、北朝方の斯波高経が勢力を伸ばしていた。
10月11日(新暦11月19日?★箕輪初心の計算) 
      木の目峠で大量の凍死者。
10月13日 敦賀で、気比神社へ(堀口満貞に任せていた地区)
      ●大宮司:気比氏治の案内で、金ヶ崎城に入城。
     「かの城の有様は三方は波によって岸高く、厳なめらかなり。」
                (太平記)
11月     足利尊氏が建武式目を発布。
12月     後醍醐天皇は吉野に去り、・・・・南北朝が分立。
延元2・建武4(1337)
1月    足利家執事:高師直弟:高師泰が新田義貞が立て籠もる
      金ヶ崎城を攻撃。3ヶ月の兵糧攻め。
     ●新田義貞軍は兵糧攻めにあって、餓死者が出たり、人肉を食べた
      りしたとか?(若狭:金ヶ崎城:新田の戦い)
3月5日 新田義貞と脇屋義助は落城前日、再起を期して城を離れた。
      瓜生氏の杣山城に入城。
3月6日  高師泰や斯波高経の攻撃→金ヶ崎城が落城。
      →尊良親王・新田義顕が自害。恒良親王は北朝方に捕縛。
      南朝方は義貞の嫡子:義顕以下300名が討ち死に。
        851人(太平記では)
4月  ●新田義貞は杣山城から檄を飛ばした。→多数の味方を得た。
8月11日 陸奥の北畠顕家は義長親王を奉じ、京へ出撃。
       新田系の者も参戦。
     8ヶ月の抵抗・・・北畠・新田の作戦・連携の失敗で、鎮圧。
延元3・建武5(1338)
2月  ●新田義貞は足利(斯波)高経の居城のある府中(現武生市)へ攻撃。
    府中の戦い
    日野川の激戦で、斯波高経の居城:新善光寺城も府中も
     ことごとく燃え尽きた(伝)。
    ●府中で新田義貞軍が斯波軍を破ったことで、勢いを盛り返した。
    ●新田義貞軍は越前の足利方の73の出城を降伏。
     →新田義貞軍が優位。
    ●新田義貞は越前を完全掌握するために、斯波高経の黒丸城を包囲。
     京の八幡山への救援を命ずる後醍醐天皇の寝筆の勅書
      (天皇直筆)が届いた。
    ●新田義貞は「武士で寝筆の勅書を賜った例はない、新田の家の分を
     超えた名誉だ」と喜んだ。(伝)。
6月  ●越後里見一族:大井田弾正少弼氏経・鳥山左京亮らの援軍が到着。
     斯波高経の黒丸城は簡単には落ちなかった。
    (足羽七城は城同志が互いに敵の背後にまわり挟み撃ちが出来るよ
     うに配置。※藤島城には白山平泉寺の僧兵が守備。)

閏7月2日●新田義貞は戦況がよくないので、50余騎で偵察に向かった。
    ●新田義貞は途中、藤島の灯明寺畷(福井市新田塚)で
     斯波家臣:細川出羽守と鹿草(かくさ)彦太郎など300余騎の
     軍勢に出くわした。斯波軍は一斉に弓を射掛けられた。
    ●新田義貞側は盾の弓も持っていなかった。
     中野藤内左衛門は、「大将は雑兵を相手に戦うべきではない」と
     箴言した。しかし、つぎつぎと射殺されていく配下を見て義貞は
     覚悟を決め、敵に向かった。新田義貞の騎馬には多くの矢が立ち、
     田んぼの中にほうり出された。そして、面を上げた瞬間に、額に
     敵の矢がささった。義貞は「もうこれまで」と思い、抜いた太刀
     を左の手に取り渡し、みづから首をかき切った。そして、泥の中
     に横臥した。
    ■越中の住人:氏家中務丞重国(なかつかさのじょうしげくに)が
     走りより、首を取つて刀の刃先に貫き、鎧・太刀・刀を取り、
     黒丸城へ帰った。
    ●結城上野介・中野藤内左衛門尉・金持太郎左衛門尉、馬より飛び
     下りて、義貞の死骸の前にひざまづいて、腹かき切つて殉死した。
    「四十余騎の兵が射落されてたが、敵のひとりをも取りえずに、
     犬死して臥したりけれ。」(太平記)
    ★灯明寺畷で没・・・「あ〜あ。残念。」
    ●新田義貞の首は都大路を引き回され、獄門にかけられた。
8月 足利尊氏、北朝より征夷大将軍に任ぜられて室町幕府を開いた。
9月 新田義貞の死後、脇屋義助が足利勢と越前で交戦。
(参考文献・・新田義貞:峰岸純夫著など)

A金ヶ崎城の戦い
元亀元年4月(1570)4月、織田信長が一ノ谷城:朝倉義景討伐を命令。
*徳川家康・羽柴秀吉(=豊臣秀吉)・前田利家等が敦賀に進軍。
*織田信長勢は朝倉氏の金ヶ崎城を攻撃。
 →前田利家・木下藤吉郎などの活躍で天筒山城・金ヶ崎城は落城。

*近江:浅井長政が朝倉義景に味方するとの報告を受けた織田信長
 は朝倉義景と浅井長政との間に挟まれ窮地にたたされた。
*木下藤吉郎が殿(しんがり)を申し出た。
*織田信長は前田利家には供を申しつけ、全軍撤退命令を出した。
  後に、「藤吉郎の金ヶ崎退き(のき)口」と言われる。
 ★一番最初の写真を参照。
 ここで羽柴秀吉は殿を勤め、出世の糸口をつかんだのであった。
 また、この殿(しんがり)での危機を救ったのは徳川家康であった。
(参考文献・・・学研:まんが豊臣秀吉など)

○この後、気比神社・気比の松原・武田耕雲斎の寺などに行った。
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○気比の松原から金ヶ崎城を望む。
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●ヨーロッパ軒の「とんかつ」
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●1回目・・・敦賀市:金ヶ崎城→小谷城・長浜城・彦根城・中山道へ
●2回目・・・敦賀市:金ヶ崎城→三方五湖→小浜城→田辺城などへ

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