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zoom RSS 箕輪初心●箕輪城シリーズK「長野・井伊時代の用水路開発」と現在

<<   作成日時 : 2010/10/09 11:19   >>

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箕輪初心●長野氏の新田開発(高崎箕郷・長野郷)
※関東管領上杉氏支配の長野氏の勢力拡大し、新田開発を進めた。
★1400年年代・・長野氏は現浜川運動公園=御風呂遺跡の隆業館(東山道沿い)に在住。
★1500年中頃→北上し、浜川館(高崎北高西となりの野球グランドから西)
                 乙業館(道場来迎寺北200m)
★1500年後半・・・応仁の乱→永享の乱以降、長野氏は山間部に守りの砦・城を築城。

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  写真は、矢島砦から長野新幹線を望む。

鷹留城&箕輪城+家臣団の砦62?&厩橋城を築城。
K箕輪城勢力範囲の高崎北部地区(浜川町・沖町・大八木町・旧箕郷町・旧群馬町)の新田開発・・
 1)高崎市浜川町付近の砦・館は方形で、周囲に堀が巡らせた。
   春〜夏は用水路であり、冬には魚を食料とするためであった。
     例、隆業館・北新波砦・矢島砦・井野館・北爪館・寺の内遺跡・
 (御風呂遺跡の御風呂池 ・北新波の砦2枚・・・北新波の砦の外堀)
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   (高崎市浜川町の隆業館)
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  2)わき水の利用・・・
  (高崎菊地町うなぎ神社の御神池     高崎市行力町の玉清水    道場の池?)
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  ●鷹留城勢力範囲の旧榛名町地区(現榛名町の箕郷よりの地域)の新田開発
  ●厩橋城勢力範囲の前橋城近辺(この時代の利根川は広瀬川)
         +小泉・大胡周辺の新田開発

戦国時代
L本郷堰(榛名白川支流→旧榛名町)
(箕郷善地駒寄→高崎榛名梅の木→高崎榛名榛十文字→箕郷梅祭り公園西→高崎榛名本郷
           ・・榛名白川へ)
 ■訪問記・・・
 〇高崎市箕郷町善地駒寄・・・
  ※釣り堀「岩亀」・・・キノコ取り名人:堀内さんのキノコ入りうどん&鱒の塩焼きが最高。
  ※群馬の松・・・群馬=「馬が群がる」の意味
  ※治尾の滝・・・高崎市箕郷町の中善地は平地だった。1500年代は馬の生産地?
 @高崎市箕郷町善地駒寄・・・榛名山系車川の取水口(群馬の松入り口の200m下)
 A高崎市榛名町梅の木・・・・・取水口は何百回と大水で壊されたが、その都度、復興。   
 B高崎市榛名町十文字・・・・・※十文字大根は群馬1のブランド品(の榛名軽石地形)
 C高崎市箕郷町善地・・・梅林・梅はカリカリ漬け・和歌山に梅工場や愛媛ポンジュースへ
 D高崎市箕郷町蟹沢箕郷梅公園脇の橋が本郷堰  ※箕郷ブルーベリー公園
 D高崎市旧榛名町白岩・・・・・
 E高崎市旧榛名町本郷・・・・・
 ※長野堰の取水口近くに落下?たぶん?。    
 ※1500年代前半には、箕輪城主:長野業政が用水路建設?
   ・500年前の新田開発がすごすぎる。

M祭戸用水(箕輪城城下町の生活用水&旧群馬町の田)
 (箕輪城北西200mに榛名白川取水口→内宿=箕郷福祉センター→3分流
                  =箕輪の市街地に3本の用水路)
 ※1530年〜、箕輪城主:長野業政家老:下田大膳が用水路建設?
 ★箕輪初心:推測・・・下田大膳の屋敷は現箕郷支所&中央公民館であった。
         田んぼはそこから北の消防署にかけてあったと思われる。)
 ※1582年〜、箕輪城主:北条氏邦→井伊直政が用水路建設?
 ★箕輪初心推測・北条氏邦は城下町造成に「宿」と名付けた。箕郷消防分団から南は裏宿と
    現在でも使用。
    内宿(箕輪城西の低地・・・榛名白川の間)→裏宿・・生活用水が必要だった。
 ※1590年〜箕輪城主:井伊直政は祭戸用水を生活用水
  ・農業用水として3つに分流したのでは?
 ★箕輪初心推測・・井伊直政は城下町造成に「町」と名付けた。連雀町・本町・
    内宿(箕輪城西の低地・・・榛名白川の間)→裏宿・・・・生活用水が必要だった。
 @西コース・道具屋敷(道ぎ)の上村さん宅→箕郷消防分団→高橋建設→郵便局→箕郷支所
 A中コース・箕輪小の西→連雀町(川浦床屋など)→田町(商工会議所・バス通り)
       →四谷・・・
 B東コース・・箕輪小→矢原宿→本町(城下町の名残多し)→紺屋町(群馬銀行・現金屋)
    →四谷・・・
 C東から椿名沼コース・・・現箕輪小学校の東校庭(昭和時代の用水路)
 ※〜1950年頃(終戦後)まで、箕郷町では3コースの生活用水は使われていた。
  朝6時〜朝9時は炊飯・食器洗いの時間、11時から〜12時はおむつ洗いの時間と
   設定されていた。  (箕輪城祭り実行委員長内田氏の話)
 ※1950年頃・・・昭和25年?椿名沼(現箕輪小東校庭)の暗渠排水工事で3本の暗渠が
   敷設され、現箕輪小東校庭と第1保育園の用水路が建設された。
                   (松原の石川氏=南の田んぼの持ち主の話)
 ■訪問記・・・現在の一番東のコース
 @榛名白川の取水口〜〜  
 A箕輪城虎蹈門横〜〜〜
 B内宿の箕郷福祉センターの奥〜〜
 C箕輪小学校の東校庭(元椿名沼)の外周を4分の3周〜〜
 D矢原宿;本町の東を南下〜〜〜
 E井野川に落下・・・・井野川の取水口
 F箕郷の松山寺南を横切る
 G天神川に落下・・・・天神川の取水口
 H箕郷フレッセイの東の北野神社を通る。〜〜〜
 I箕郷さわやか交流館東を南下〜〜〜
 Jドンレミー(ケーキ工場)の西????不明
 K保渡田城の水堀・・・江戸時代末、生原村・保渡田村・井出村で水争いの記録が存在。
 K大清水川に落下・・・大清水川取水口・・・
 L保渡田古墳群??・・・・・不明
 M本当の旧井出村=高崎北高の北???・・・不明

N早瀬川
 (箕郷上芝水車→下芝→高崎楽間町→井野館前→北新波砦前→北爪館前→高崎大八木)
 ★1500年代前半には、箕輪城主:長野業政が用水路建設?
 ■訪問記・・・多数訪問。
 @高崎市の箕郷ふれあい公園プールは1500年代は川だった。榛名白川が箕輪の河岸段丘沿い。
  早瀬川は「つり吉ケン太」付近に取水口があったと想像できる。
  根拠・・・箕郷のプール付近は中之島の地名が残存。(箕輪城語り部の会:高橋氏所蔵の文書)
 A箕郷町上芝の水車〜〜〜
 B現在は中部用水と交差〜〜〜
 C祭戸用水の西コースと合流?・・・私見
 DEKエレベーターと西部病院の間を南下〜〜〜ここまでは、470年前の勝手な想像。
 E箕郷町下芝・・・・・※現青柳屋敷(元群バス団地南の領主)
              ・現第五保育園・万福寺(1421年創建)脇を通り〜〜〜
 F箕郷町下芝・・・・・※田口屋敷(元は県立博物館南に所領)〜〜〜
 G高崎市楽間町・・・※楽間の宝きょう印塔  
              ※井野館
 H高崎市菊地町・・・※抜鉾神社=ウナギ神社北〜〜〜
 I高崎市菊地町・・・※菊波団地北のハイキングロード〜〜〜〜
              ※長野小の校庭の中→南新波の堤に供給→・・・
   (高崎市菊地町付近・北新波の砦・高崎市浜川町大山医院裏の寺内砦)
 J高崎市北新波町・・※北新波砦・満勝寺砦の南を南東に流れる。
 K高崎市南新波町・・※長野小学校の東を流れる。
 L高崎市浜川町・・・・※北爪館=現浜川郵便局南で現ローソン
 M高崎市浜川町・・・・※寺内館=大山病院裏・・・
 N高崎市小鳥町・・・・※ラジエ工業南
 O高崎市町浜川町・・※浜川公園の南駐車場「隆業館」の200m南。東山道コース
 P井野川・唐沢川に100m下で合流・・・※長野氏時代の館が3つある。
(早瀬川&井野川の合流地点・・・中島川&唐沢川の合流後、井野川に合流。
   長野氏時代の館&三国街道)
 Q洋服のアオキ・赤ちゃん本舗北西200mで、信濃新幹線&上越新幹線の分岐
 R→江戸時代の安藤対馬守重信が造らせた大日堰に繋がる。
       
O長野堰(高崎沖町→高崎農業普及所南→高崎飯塚町→高崎大類→烏川合流)
 *延長6年(928)   長野康業が長野堰を開発開始? (中島宏氏の「長野堰の水と光」より) 
 *天文20年(1551) 箕輪城主4代目:長野業政は長野堰を開発。
     当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:現在の取水口付近で烏川に合流していた
     ため、本来の取水口は、高崎市沖町上沖の諏訪神社北付近だと。想像できる
 *永禄9年(1566)〜 箕輪城主は武田信玄家臣:甘利・浅利・内藤らが水路整備?(資料なし)
 *天正10年(1582)〜箕輪城主:北条氏邦・猪俣邦憲などが水路整備?(資料なし)
 *天正18年〜慶長年間1600年頃・・・箕輪城主8年→高崎城主:井伊直政が拡張工事完成?
 *文政年間(1818〜)・天保年間(1830〜)・嘉永年間(1848) 長野堰をめぐる水争い
 *明治23年(1890) 長野堰組合が発足
 *明治26年(1893) 上並榎に佐賀野川用水が開設。・・・水車4基。
 *明治37年(1904) 榛名湖より天神峠トンネルから引水し長野堰へ補助用水。
 *大正3年(1914)  板紙製紙工場が長野堰の水を使用。
 *大正12年(1924) 下小塙堰の完成。
 *昭和2年(1927) 長野二段締め切り頭首口(高崎市金井淵町)→堰・・・烏川横断・・・
          高崎市我峰町→高崎市新井団地→環状線新井の信号東を横断→
          高崎市立北部小北面を東へ→真木病院西で本長野堰に合流・・・
                 (後に、本長野堰+貝沢堰新築・・・・)
 *昭和6年(1931)  長野堰の石積み工事開始。
 *昭和28年(1953)〜昭和43年(1968) 長野堰の三面コンクリート工事。
              染色業の染色原料の芳流が長野堰・一貫堀川増加。
 *昭和35年(1960) 上並榎に瀧谷不動近くにポンプ堰を建設。
 *昭和37年(1962) 円筒形分水工事。
 *昭和47年(1972) 高崎市旧榛名町本郷に長野堰頭首口が完成。
 *昭和49年(1974) 〜昭和54年(1954) 水質汚濁解消工事。
 *平成20年(2008) 長野堰の感謝祭イベント実施。     (中島宏氏の本・などを編集)
 ●長野堰サイクリングロードコース
 @「長野堰頭首工」・・烏川から長野堰にへと取水。最大時、6.797立法メートル取水。
  ※高崎市榛名町本郷・・・「頭首工竣工記念碑」  昭和47年
 A高崎市沖町・・・・・・・養魚場に給水。
 B高崎市沖町・・沖町郵便局・岡田邸・・長野堰が見える。長野時代は、住吉砦であった。
   従って、当時、榛名白川は高崎市沖町の繁華街の北:
    現在の取水口付近で烏川に合流していたか、市街地が榛名白川であった?
          ため、本来の取水口は、高崎市沖町上沖の諏訪神社北付近だと。想像できる
 C現榛名白川を渡るサイフォン・・・水門とサイフォンの入り口
     榛名白川の手前で再びサイフォンが設置されており、川を伏せ越している。
 D榛名白川左岸。。。長野堰の流れは新波橋を左岸の伏せ越の対岸フェンスの裏に水路
 E県道26号を離れて200mほど暗渠。再び水路。石柱には「水神宮」。
 F第一我峰堰・・・長野堰サイクリングロード。美しいカーブを描きつつ水路が続く。
          田んぼの中を行く。自転車道が続いている?
 G高崎市下小塙JR前・・水路沿いを行く。
   長野郷中学校南を東に進む。周囲の景色は一面の田んぼ。
 H高崎環状線と交差。・・・・歩行者用の地下道が整備。
 I高崎市上小塙・下小塙の堺を進むと、流れはだんだんと高崎住宅街へと変わっていく。
 J長野堰改修記功碑・・・・信越本線と交差地点には歩道橋設置。
 K高崎市「サイク長野堰リングロード」・・・
  「高崎市総合文化センター」で長野堰サイクリングロードは終端。
   実際には長野堰最大の見所と大きな分水工「請地堰」が先にある。
 ●五万石義人堂五万石義人堂。
   明治維新の頃減税を訴えて蜂起した五万石騒動の際に、総代が捕らえられ処刑された場所。
 L佐野堰へ分流
 M「長野堰円筒分水堰」・・・中央のサイフォンからあふれ出た水が、4つの水路に分かれる場所。 
  地獄堰、矢中堰、倉賀野堰・上中居堰の4堰に分岐=正確に受益配分される分水施設。 
  ※分水堰付近の石碑には「恐ろしや 地獄の関と 思ひしが 悟ればここぞ 極楽能堰」
  ・かつての水利争いを地獄、分水堰ができてからは極楽という意味である(伝)。

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